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 みかんぐみは加茂紀和子、曽我部昌史、竹内昌義、マニュエル・タルディッツの4人のメンバーによる建築設計事務所です。詳しくはこちら→
 MIKAN is an architectual design office that consists of 4 members, Kiwako KAMO, Masashi SOGABE, Masayoshi TAKEUCHI, Manuel TARDITS. detail GO→

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コラボ Collaboration


 みかんぐみは事務所内だけではなく、多くの人やグループとコラボレートする事で様々な角度からデザインを考えています。
 By collaboratiing many people and groups, we design from various angles.

24 KARAT GRAPHICS
 http://www.24karat.jp/

アラップジャパン Ove Arup Japan
 http://www.arup.com/

イデー Idee
 http://www.idee.co.jp/

角舘政英光環境計画
 Masahide Kakudate Lighting Architect & Associates
 http://www.bonbori.com/

金箱構造設計事務所
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クライン・ダイサム アーキテクツ
 Klein Dytham Architecture
 http://www.klein-dytham.com/

構造設計工房デルタ
 Structural Design Atelier DELTA
 http://www.delta-sc.com/

電通 DENTSU
 http://www.dentsu.co.jp/

デンツウ・デザイン・タンク
 DENTSU Design Tank
 http://www.dentsu.co.jp/...

東北大学建築計画研究室
 Tohoku Univ.Architectual Planning Lab.
 http://www.archi.tohoku.ac.jp/...

野老朝雄 (tokolo.com)
 Asao Tokolo (tokolo.com)
 http://www.tokolo.com/

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 Riken Yamamoto & field shop
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マニアッカーズデザイン
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GAヤマザキ
 GA Yamazaki
 http://www.h6.dion.ne.jp/...

スタッフ staff


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 this is the page of the present staff support 4 members.the page consist of the construction site diary, staff's chats, etc. GO→

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 みかんぐみが日頃お世話になっていたり、メンバーの知り合いだったり、スタッフのお気に入りだったり、クールだったり。
 The sites we thank and members' connections, staff's favorites, "cool".

ドローグデザイン Droog Design
 http://www.droogdesign.nl

dezain.net - 今日のデザイン情報
 http://www.dezain.net/

telescoweb/テレスコウェブ
 http://www.telescoweb.com/

うすーい建物
 http://homepage2.nifty.com/us...

住宅都市整理公団
 http://homepage2.nifty.com/da...

東京R不動産
 http://www.realtokyoestate.co.jp/

南洋堂書店ウェブショップ
 http://www.nanyodo.co.jp/

日本道路交通情報センター
 http://www.jartic.or.jp/traffic/...

東京福袋
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vilac
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Variety Football
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スタイルアリーナ
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庭の花束
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ICSカレッジオブアーツ
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東京芸術大学先端芸術表現科
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東北芸術工科大学 TUAD
 http://www.tuad.ac.jp/

金太郎飴本店
 http://www.kintarou.co.jp

がじゅまる
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よかろうもん
 http://www.jiyugaoka.or.jp/...

ガラスの競馬場
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An Introduction to Game Theory
 http://www.geocities.co.jp/Wall...

数理科学美術館
 http://www2.neweb.ne.jp/wc/...

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みかんぐみウェブサイトver.4.6
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編集/Edit:みかんぐみ MIKAN
制作/Design:みかんぐみ MIKAN
ウェブマスター:石井真人みかんぐみ)
webmaster:Masato IShii(Mikan)


非作家性の時代に 住宅特集jt1997.12

大町の家

 60才前後の夫婦の山荘である。愛犬2匹とともに1年の半分ぐらいをここで過ごす。独立した子供達や親しい友人達とのひとときを楽しむための家でもある。信濃大町の美しい自然に囲まれており、冬は雪が深い。敷地は14m×55mの東西に細長い長方形。東側にアクセス道路があり、西側は高低差約10mの急な傾斜地であり、その下には、わさびも生育できるというせせらぎが流れている。西側隣地は、ゴルフ場の森である。施主からの要望は、北側隣地が友人宅であることからその家の邪魔にならないこと、既存樹木をできるだけ残すこと、地元の温泉を引き込みできるだけ大きい風呂をもうけること、夏のバーベキューや沢遊び、冬の暖炉、友人と麻雀にふける部屋、読書のできる場所、キッチンは独立型、将来はバリアフリーに対応、等々であった。
 建物は、主な空間を上階にまとめ、客間部分を下階に分離した2層構成を持つ。隣家からの見えがかりのボリュームを軽減し、建物とせせらぎとの高低差を少なくするために、建物を傾斜地に迫り出し、客間階をRC造として半分斜面に埋めた。敷地の間口いっぱいに幅をとった方形平面を持つ建物のボリュームによって、外構が東西に分割される。東側はパブリックなアプローチ空間、西側はプライベートな庭となる。アプローチ側から見ると平屋のように見える。信州産のヒノキ板張りのひっそりとした佇まいである。内部からは西側に信濃の山々を望み、周囲は森に囲まれていて外部からの視線を気にする事もない。
 上階平面は、東西の性格の異なる外部空間を繋ぐように中央に居間・食堂が配され、その両端部に麻雀室と夫婦の寝室が連結する。これらは建具によって独立した3室にもなり、折れ曲がって連続する大きな1空間ともなる。その廻りに、浴室、台所、玄関、納戸が配される。浴室には南西角の日当たりと景観の最もいい場所が選択され、湯に浸かりながら四季折々の自然を眺め楽しむ場となっている。上階西側のバルコニーではせせらぎの水音を楽しむことができ、下階客間のレベルからはせせらぎに下りるためのジグザグの小径が用意されている。


相模原の家

 40才前後の夫婦と夫の両親、それに一匹の犬のための住宅の建て替えである。敷地の3面に隣家が迫っているが、南側は幅の広い緑道に面していて、日当たりと緑が望める。しかし南北に長い敷地のため、以前の家屋では北側の部屋の日当たりが悪く、冬場の寒さが年配の両親にはつらかったそうだ。また、敷地からほど遠くないところに米軍の厚木基地があり、戦闘機の発着訓練の騒音は大きな問題になっている。また、敷地の隅に毎年甘い実をつける古い柿の木があって、それを残すことも条件の一つだった。さらにエコロジーの観点からソーラーシステムを導入したいとの希望があった。また、これまでの家ではすべてを共用としていたが、共働きの若夫婦と両親では生活の時間帯が異なることもあり、建て替えを機に二世帯住宅として両者の関係を考えてみることになった。
 これらの条件に対して我々が提案した計画は、リニアに連続する諸室が中庭を螺旋状に巡る構成を持っている。共用の玄関および浴室を分岐点として、一階を両親、二階を若夫婦と領域を明確に分節し、プライバシーの高い部屋ほど中央の玄関から離れる配列になっている。しかし、中庭越しに両者の気配が感じられるように開口部の配置を工夫している。また、この中庭は敷地北側の部屋の日当たりを確保し、家全体の風通しを良くすることにも寄与している。
 東、西、北の隣地に対しては境界に沿って開口部の少ない壁面を立てているが、南面はアプローチや二階のバルコニーが緑道に対して開いている。ただしそれらも木製ルーバーの建具によって必要に応じて閉じることが可能である。既存の街並みに対して過剰な閉鎖性やボリュームの突出を避けている。
 設備面では空気式のソーラーシステム(OMソーラー)を採用して1階全面を床暖房とした。さらに空調負荷および防音を考慮して全てのサッシをペアガラスとし、外壁には100mmの断熱材を入れるとともに通気層を設けて高断熱を図っている。


非作家性の時代に

 今回同時に発表する2つの住宅は、みかんぐみが手がけた最初の住宅である。私たちは5人のパートナーの共働で設計を行っており、住宅の場合もそのやりかたは基本的に変わらない。敷地調査から基本設計をまとめるあたりまでを、全員で議論しながら設計を進めている。

 普通であること
共働で設計を行っているうちに、次第に5人に共通する、ある指向性がはっきりしてきた。それは一言でいえば普通の感覚で住宅を作りたいという気持ちである。住宅を設計するに当たって、いままでにない新しい提案を行うとか、個性的なかたちを用いるとかの、なにかしらのユニークネスがなければ建築家としての存在意義がないという風には、私たちには思えないのだ。逆にユニークネスが先鋭化したところのエキセントリックな作家性に違和感を感じてしまう。だから住宅に作家性が表れることを注意深く避け、あらかじめ脱色された作品を作ろうと考えている。
作家性、つまり建築家としての過剰な表現が前面に現れないようにデザインすることがみかんぐみとしての共通した指向性であり、それが普通の感覚でつくるということなのだ。そしてそのための具体的な方法として私たちが採っているのが「パラメータの豊富化」である。

 パラメータの豊富化
 たったひとつの家族のための住宅とはいえ、これをとりまく今日の状況はかなり複雑で、設計者が考慮すべき問題は多種多様である。住宅に求められる機能性、社会性、経済性、あるいは施主の個人性などから割り出される雑多な条件のひとつひとつを設計におけるパラメータと呼ぶとすると、私たちの理想とするやり方は設計のプロセスで取り扱うパラメータを豊富化することである。できるだけ多くのパラメータを拾い上げ、それらに優先順位をつけずに極力等価に扱おうと考えている。たとえば今回の2つの住宅設計で扱われたパラメータのうち、配置計画に関するものだけでも「街並み」「隣家」「プライバシー」「採光」「通風」「騒音」「眺望」「敷地の勾配」「積雪」「建物の見え方」「樹木」「樹種」「盆栽」「アプローチ」「駐車場」「アウトドア料理」「物置」「配管」「足場」「設備機器」「ソーラーパネル」「地盤」といった具合に挙げることができ、これらが同等な重みを持って設計に組み込まれる。
 ただし、たくさんのパラメーターを等価に取り扱うとはいえ、それらを無秩序に並立させたり、あるいは意識的に「豊富なこと」をプレゼンテーションしようとも思わない。私たちにとって大切なのはそのようにパラメータを扱うというプロセスであり、結果的にそうした意図が可視化されているかいないかにはこだわらない。それよりもなるべくさりげない印象を持つように、全体を統合することができればいいと思っている。

 クライアント
 住まい手の人となりを把握するため、設計のスタート時点でスタッフを含めた全員が施主との顔合わせを行う。そして初期の施主との打合せの中で彼らの要望を出してもらうが、その際には設計者というよりはインタビュアーに徹してとにかく話を聞く。
 機能的な要求から漠然としたイメージまでできるだけたくさんの施主の考え方を聞きだした後、個々の要望を他の前提条件とともにパラメータとして設計に取り入れる。また、ある程度基本構想案が固まった段階で施主を含めたディスカッションをする場合もある。それは施主の抱いているイメージと私たちの考え方との距離を測るためであり、施主の要望をできるだけ正確にパラメータ化したいからである。

 複雑さの受容
 施主へのインタビューとかパラメータの豊富化という言葉から、ユーザーフレンドリーな親切設計を目指しているように思われるかも知れない。たしかにユーザーとしてのクライアントの要求もパラメータのわけだから必然的に親切設計になる。だが、私たちの意図は別のところにある。
 本誌97年12月号の編集後記のmt氏による「『親切設計』の名を借りた安直な妥協を続ければ、角を矯めて牛を殺すことにもなりかね」ないという危惧、そして「何をやりたかったのかがダイレクトに伝わって」くることや「コンセプトをいかに実現していくか」を重視する価値観は、いまの私たちには理解はできるがどうも馴染めない。絞り込んだ条件を切れ味のいいコンセプトで一刀両断するような問題解決のしかたは明快な建築を生む。戦後の住宅建築史を振り返ってみればそうしたわかりやすい作品がきら星のように並んでいる。しかしこれだけ複雑さを増した現代社会においてそのような単純明快な方法で問題が片づくとは私たちには思えない。この複雑な時代を生きる私たちがとる道は、複雑さをそのまま受け入れ、そのなかでバランスを失わないようにものごとを判断していくことだと思う。私たちにとってパラメータを豊富化することは、そうすることで複雑な時代を肯定的に受け入れ、この時代にふさわしい設計方法を模索することにつながっている。
 さらに言えば一つの住宅を取り巻く状況は時間とともにどんどん変化していくわけで、パラメータを増やすことはできあがった建物にそれが設計された時代を色濃く反映させることにもなる。

 わかりにくさとダイナミズム
 われわれが普段雑誌で目にする建築には前出のmt氏が絶賛するヘルツォーク&ド・ムーロンばりにコンセプトも明々白々なキャッチーな作品が少なくない。ところが、みかんぐみの住宅は、たとえば見学会に訪れた知り合いの建築家たちなどから、「何がやりたいのか不明」、「プランが外観に表れていない」といった批判を受けることになる。端的に言えば私たちの設計した住宅は「わかりにくい」のだと思う。目立った表現を持たず、問題を単純化せず、それでいて「豊富さ」をアピールするのでもないから、そうした批判は出て当然と言える。私たちにとってそんな意識的なわかりにくさは自然で身近な存在なのである。
 一方で、私たちが5人で設計をしていると、基本的な方向性は共通しているとはいえ、様々な局面で個人個人のブレが表れてくる。この個人差がデザインを展開させるエネルギーのもと、みたいな感じで、それがなければグループで活動する意味がないと思う。そうした個人差によるブレが設計をどのような展開に持ち込んで行くのかは誰もわからない。かなりくねくねとしたプロセスを経ながらエスキースは進んで行く。こうした予測不能なプロセスから生じるわかりにくさというものがみかんぐみの設計のダイナミズムだと思う。

 非作家性の時代の方法論をさがして
 過剰な表現を抑制することも、パラメータを豊富化することも、住宅に作家性という自我を持ち込みたくないというひとつの根から発している。さらに言えば、私たちが5人のイーブンパートナーシップで設計を行っているのも、個人の自我の表出よりも視野の拡張の可能性の方を重視しているからに他ならない。逆に言えば私たちは現代において作家性を表明することにうまくリアリティーを持てないのだ。
 世代論にしてしまいたくはないが、作家性を否定したり、あるいは重視しない建築家の一群が若い世代に現れて来つつあるように感じる。昨年東京で開かれた30代の建築家の会議&エキジビション(30×100architects展)にみかんぐみも参加させてもらったが、このエキジビションを見た上の世代のある建築家が「どれも同じように見える」と感想を述べたという。たしかに個性的であるよりは同時代的であろうとする姿勢が少なからず表れていたように思う。

 今日の建築の状況を非作家性の時代と呼ぶべきかどうかは異論のあるところだろう。でも少なくとも今回の2つの住宅の設計を通して私たちがしてきたことは、非作家性の時代の方法論を探すことだったと思っている。

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国際博覧会でのパビリオン建築のあり方  re-use―再利用の可能性

万国博覧会はそれが行われる時代とその時代の建築の考え方がよく反映される。愛・地球博では、その開催の検討が行われている時期から、環境との調和が大きなテーマである。

□トヨタグループの取り組み
トヨタグループは、長径46m、短径40mの長円形の平面、高さ30mのボリュームをもつシアター型パビリオンを計画した。内部は、コロセウムのような段床と頭上に15mの高さの360°のスクリーンが展開し、その映像とともに未来モビリティの可能性を表現するパフォーマンスが行われる。トヨタグループは自動車を中心に、多くのグループ会社が環境に深く関わっていて、意識も高くこの博覧会で出展されるパビリオン自体もトヨタの環境に対する取り組みを表現するもののひとつとしてとらえている。たとえば、このパビリオンで使用されるエネルギー(電気)に関しては、会場外の自社工場に風力発電装置を建設し、会期中の電力を賄うなどの独自の基準を設定し環境問題に取り組んでいる。パビリオンにおいても、ゼロエミッションを目標とし、設計、建設、解体のプロセスにおいてLCA評価行うこととなっている。ここでは、3R(リデュース(reduce)、リユース(re-use)、リサイクル(re-cycle))の順で、建築材料の再利用を考えることが要求された。ライフサイクルコストで考えると、リユースとリサイクルでくらべた場合、リサイクルのために使用されるエネルギーが格段に大きいために、リユースが格段と有利になる。

□リユースしやすい構造
そこで、できるだけリユースしやすい材料を探した。さまざまな材料を検討して、建築の下地材などによく使用されるC型鋼、C-50x100を使用することとした。構造材をリユースする場合、製鉄所が発行するミルシートでの監理ができなくなる。公共建築などでは、鉄骨の品質管理のために、これを使うので、これがないと構造用の材料として認められない可能性があるのである。(現代の日本では、中古の建材の市場どころか、中古部材を一般的に使うのがむずかしい状況にある。)鉄骨材を構造材ではなく、仮設材として山留めに使うことも考えられるが、すべてを山留めに使う訳にもいかない。それだったら、構造的な使われ方をしない下地材をつかい、リユース(再利用)を考えることがより多くの可能性を担保する。さらに、下地で使うにしろ、ボルト穴による欠損部分が小さい方がよりリユースしやすい。そこでできるだけ、穴をあけない工法を探った。接合部に関して、2枚(ブレースがある場合は3枚)のプレートに挟み込み、それらをボルトで締め、プレートと柱の摩擦力で締結する方法をとり、実験で安全を確認した(無穴締結工法)。これにより、長い部材に穴をあけずにそのままの姿で、再利用することができる。構造を環境に対する考え方の表明にするばかりではなく、外観のデザインとするため。外壁をその内側に設けた。そうやって得られた外観は、細かい部材が建物の輪郭を曖昧にするような効果をもつ。そして、光の透過、反射、陰影により、時間ごとに表情を変えていく。

□再生可能材料の壁
構造同様、パビリオンの外壁や内壁には、再生可能材料を使用した。私たちがまず考えたのが耐久性の問題である。万博の開催期間は約半年、準備をあわせても1年間という短期間だ。その特性を考えた場合、半永久的な、あるいは何十年という耐久性は必要ない。もっとも無駄のない、合理的なのは1年間あまりの耐久性である。そういった観点から、外壁に紙を採用しようと考えた。紙は水に弱いが、牛乳パックのように紙の表面に、水がしみ込まないよう加工すれば問題はない。表面にペットボトルと同じ成分のペットシートを貼って、防水性を確保した。そして、実施設計段階で、建材として使用できるかどうかさまざまな実験をおこない、その材料のリアリティーを検証した。1年間とはいえ、これだけの規模の建物の外壁が紙というのは、おそらく前例がない。ある意味、環境との取り組み方におけるひとつの実験である。再生紙をつかうことは、ライフサイクルコスト的にも有利なばかりではなく、一般的なパビリオンに使われるテント膜が、燃やすと有害ガスのでる塩ビ系であることを考えると格段に自然にやさしい。内壁の一部は、自動車の内装でも使われているケナフを表面に貼った廃材木チップの合板、自動車の内装にも使われている植物由来のプラスチックでできたカーペットや巾木が使われている。また、シアター内の空調システムは、合理化が図られ、工場で日常的に行われる居住域のみの空調となっている。

□アプローチはガーデン
これらメインシアターにアプローチするランドスケープは、GAヤマザキの山崎誠子氏とコラボレーションした。アプローチは敷地内で掘削した土を盛り上げた小高い丘を上っていく。これらのゾーンはグループの環境技術をプレゼンテーションする場ともなっていて、グループのバイオ緑化技術を活用したラベンダーなどの花卉や芝、また、さまざまな環境技術展示が行われる。会期中暑い夏場を乗り切るために、アプローチには屋上緑化された屋根がかけられ、強い日射しを遮る。ガーデンでは霧を発生させ、その水滴が花の葉を揺らすことで発生する香り(アロマ)により、気分の鎮静から高揚までを演出する。屋根の芝は、環境を良好に保つと同時に、モビリティを考えるトヨタの姿勢が示されている。

□さまざまなものの横断的なデザイン
構造材の繊細さをその影と共に表現するライティング・デザインを光環境計画の角館政英氏に、グラフィカルなデザインをトコロコムの野老朝雄氏にお願いした。これらのアイテムは、ショーの演出・広報用のウェブから展示計画や建物までと、さまざまな分野を横断していく。現時点では現場で最終段階の調整中である。

さて、博覧会自体の開催期間は6ヶ月と大変短い。でも、その短期間だからこそ、新しい建築へ向けての様々な実験を行うことができるし、それを行うことがパビリオン建築の存在意義だと思う。それは、単なるかたちや表層のデザインにとどまらない、これからの建築をどうするべきかという問いかけである。経済的な合理性を追求すればするほど、一般的で汎用的な工法に陥りがちだが、それでは万博でパビリオンを建てる意味はないのである。
また、このパビリオンは建設され、完成することだけが、その目的ではない。トヨタの標榜する地球循環型社会のためには、どう解体され、使われていた建材がどうリユース、リサイクルされていくのかというプロセスが、その建設のプロセス同様、もっとも重要な課題となる。その点で、建物の完成はその折り返し地点にすぎないのである。

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状況をつくること 八代の保育園作品解説

 われわれはここで、機能的な保育園の追求を目指したのではなく、一つの状況を作ろうとしていたのだと思う。もちろん、保育園という固有の機能を担った建物をつくったわけだし、そこで求められる諸条件は全うしているはずだ。むしろ、保育園として求められることには積極的な回答を試みた。単に要求へ対応するのではなく、その建物をとりまいている大きな状況(気候風土や生活習慣や人口の推移や自治体の予算や周辺農地の開発などといった諸々の事)に目を向けようと努めること、そしてそこで見つかったものを積極的に解決すべき問題として取り扱うこと、そうしてある特徴をもった状況が実現することを目指してきた。それは決して、保育園という一つのビルディングタイプを極めることではない。単なる機能的解決を越えてこそ、そこの場所、そこの社会、そこの制度になじむ、独特の状況をつくることができると考えた。そのためにわれわれが行ったことは、大きくフィールドワーク、コラボレーション、ワークショップの三つに分けられる。「フィールドワーク」は主に設計期間中に行われた。地元の保母さん達との意見交換会、保護者方へのアンケート調査、子供たちへのヒアリング、広く保育や衛生の専門家へのリサーチ等がこれに相当する。限られた期間の中で、こういったことが優先して繰り返された。「コラボレーション」は構造、設備の他、遊具や館名板などでも行われた。ここでのコラボレーションは下請け作業でも効率的分業でもない。協働するからこそ生み出せる何かを獲得することを、みんなが求めてきた。構造については下記の解説文のとおりだし、設備ではこの地の気候的特性や地域的特徴などに積極的に回答する(考慮ではなく回答)システムが提案され、やりすぎない室内環境が実現している。遊具は、まさに「状況をつくる」ように作られている。つまり、子供が遊ぶことだけを考えてつくられた単なる機能的な遊具ではなく、ここにしかない(有機的でポップな)雰囲気を作り上げるための道具になっている。建築はそういった状況が実現するためのきっかけであり、また下地である。もちろん、子供達は楽しく使っている。館名板は、ここを卒園した地元陶芸家との協働でつくられた。「ワークショップ」は主に工事と平行して行われた。フェンスパネルへのお絵かき、倉庫壁面イラストの塗り絵、コンクリート平板へのステンシル印刷、オリジナル遊具の型作りなどだ。子供達だけでなく、保護者や地元の学生など、たくさんの市民の参加を受けて進められた。
 「フィールドワーク」が目指したのは、われわれが持っている思いこみ(ビルディングタイプなどが引きずる制度的な作り方)を引き剥がし、同時に考える対象のレンジを広げること。「コラボレーション」が目指したのは、個別の検討内容をジャンプさせ思考を立体化すること。「ワークショップ」が目指したのは、今後、街の人たちが建築に参加していくための道筋を刻み、建築の生かし方についてのより具体的な理解を得ることだった。こうしたプロセスの全体が、高田あけぼの保育園という一つの状況を生み出した。それは、具体的な行為を誘発するようなものではなく、そこになじんだ一つの状況の実現なのではないだろうか。

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住宅特集jt9706月評

みかんぐみとは5人のパートナーシップによる合議制の設計事務所である.すべての設計対象を全員のディスカッションによってデザインすることを原則としている.今回,月評をお引き受けするにあたっても,基本としてはメンバー全員で議論をしたうえで,その話し合いの内容をひとりが文章化するという方法を採ることにした.ただし,奇数月のシーラカンスの月評とは異なり,われわれのほうは誰がどのような発言をしたかということは明らかにならないのであしからず.個人名を出さないで責任ある批評ができるのかという批判も当然あるかと思うが,みかんぐみの設計のやり方がそうなのだから文章だって同じこととわれわれは考えている.もうひとつ従来の月評と異なる点として,これまでの月評子がもっぱら各月の掲載作品を批評対象としていたのに対し,われわれは本誌そのものを批評対象としたい.つまり,書評ならぬ誌評である.勝手ながら個々の作品に対する評価は他の3人の方々にお任せし,みかんぐみは雑誌としての『jt』に対する一読者としての意見を述べさせていただきたいと思う.おそらくこの方針は月評の本来の目的からは逸脱するであろうし,あるいは読者の興味を殺ぐことになるかもしれない.しかしわれわれは以前から,日本の建築ジャーナリズムによる建築の紹介の仕方にある不思議さを感じていた.それがどういう不思議さで,何に由来するのかを今回の作業を通じて少しは理解することができるのではないかと期待している.さて,目次に続いて最初に現れるのが「都市の時代の住宅」シリーズで,今回は篠原一男氏の60年代の仕事が取り上げられている.実のところ,われわれの共通した意見として,この戦後の有名住宅建築を1頁読み切りで語る連載は,本誌中でもっとも楽しみにしている頁のひとつである.毎月取り上げられる作品はもちろん名作であるうえに,それが建てられた時代的背景を知ることはわれわれの世代にとっては新鮮でもある.また文章も読みやすく,限られた誌面がかえって論旨を明快にしているようだ.書いている人が匿名なのが残念ではある.これに対して,土居義岳氏の「ギマール邸のエロティシズム」と題された「性差」建築論には,まず最初の不思議さを感じた.綿密な研究と鋭い視点に基づく優れた論文であることはその内容を読めば異論のないところである.われわれが不思議に感じたのはその内容ではなく,なぜこの論文が今月の巻頭論文なのか,という点である.確かにジェンダー論は最近注目されているテーマではあるが,今月の掲載作品との関連がまったく不明である.ところがこの疑問は編集後記を読んで氷解した.本来1月号に掲載されるはずだったが5月号になってしまったとのこと.実はわれわれは今月掲載のある作品が,3世代の女性が共に暮らす住宅であることを偶然知ったり,別の作品が有名女性ファッション誌のライターの家でその雑誌に大きく紹介されているのをたまたま目にしていたために,そこに無理矢理な関連を見い出そうとしていたのだ.普段,編集後記まで読むことは希なので,そこにいい訳じみたことを書かれても,月評を引き受けていなければおそらく見落としていただろう.本誌は4月号の「木造住宅の空間とその現在」のような特集を組むことがあり,「特集作品‐‐題」として掲載作が選出されている号がある.そうした特集号において,そのテーマに沿って「視点」が書かれるならばよりインパクトのある誌面となるであろう.また,4月号の後半に載せられたいくつかの特集テーマと無関係の住宅は,誌面を埋めるためのおまけのようである.「特集」が何のために組まれたものなのか,疑問を感じずにはいられない.しかし,こうした特集が組まれることのほうがめずらしく,さまざまな傾向の作品があまり関連性なく並べられている号のほうが多いようだ.結局は「最近できた住宅作品カタログ」になってしまっている.5月号はその顕著な例といえるだろう.作品の傾向はバラバラ,論文も勝手なことを書いているというのは雑誌としては不思議なことではないのだろうか.さらに5月号で感じたことは,いくつかの掲載作における,設計者自身の説明文と作品との奇妙な関係である.表紙にもなっている遠ざかる家(板屋リョク)は外部空間の立体的構成や居間のスケール感,またはテクスチャーの選び方などに建築家の優れた個性が表れて,独特の雰囲気のある作品となっているが,「メガローン」と「中庭」の史的解説が詳しい論文からはそれらが設計のテーマとなっている背景がいまひとつ読み取れない.御殿山の家(前田光一)は抜けのある気持ちのよい空間性と,オリジナル枠のサッシュや外部階段の手すりを兼ねた竪樋などの職人的ディティールの冴えをもつ魅力的な作品であるが,「機能を特定しない」抽象的な名称をもつスペースが,われわれにはごく一般的な機能をもつ部屋と見受けられた.われわれが感じるこうしたズレは個人個人の考え方や価値観の差に起因するものであり,あって当然である.そうだとすれば,作品の発表に際して一方的に建築家が語る建築雑誌のスタイルこそが奇妙である.当事者である建築家の文章だけを掲載するのではなく,第三者の客観的なコメントがほしい.理想的には編集者が雑誌の立場を明確にしつつ作品を選定し,編集者自身か建築評論家が責任をもって批評を書くべきであろう.もちろん本欄がある程度そうした役割を果たしているわけだが,編集部の責任転嫁といえなくもない.最後にもうひとつ.いつものことながら,周囲の状況と建物の関係がわかる写真が必ずしも載せられていない.たとえばNH-HOUSE(佐々木龍郎)の解説文で作者は周囲の状況が設計に大きく影響を及ぼしていると述べているが,その理解の助けとなる写真がない.この作品の特徴であるスキップフロアの採用がどれだけ必然的なものなのかを判断し難い.この作品のように作者が周辺環境に注目していることがはっきりしていながら,そのことに写真が対応していないことは多い.ひとつひとつの作品を編集者や写真家が十分理解したうえで紹介しようとすれば,こういったズレはなくなるのではないだろうか.今日の日本の建築ジャーナリズムでは,スピーディーに情報を垂れ流すことが習慣化してしまっているようだ.本誌に限ったことではないのだが,そろそろこうした建築ジャーナリズムのあり方を見直す必要があるのではないだろうか.

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住宅特集jt9708月評

月評7月号の松村秀一氏のネオ・ヴァナキュラー考の論考に触れ,岸和郎氏のふたつの住宅(東大阪の家,東灘の家),難波和彦氏の「[箱の家]シリーズ」を眺めていて,建築家が住宅を商品として考えることの可能性についてみかんぐみ内部で議論をした.両氏の作品には,建築家の作品としての側面と共に,商品としての可能性が備わっているように思えたからである.ここでは,岸,難波両氏が自らの作品を商品として考えているかどうかは前提としない,また,ここでいう「商品」とは「ある特定のイメージを介して消費をアピールするもの」のこととした.岸氏の作品は,いずれもこれまでの作品と連続するきわめて洗練されたものだ.コンクリート打放し,白く塗られた鉄骨の部材,ここぞという場所に穿たれた最大限の開口,嫌味のない中空セメント板のディテール等々.これらを駆使して,都市住宅がつくられている.建築家としての手法が完成されていると了解できるが,見方を変えれば同じような印象の建物がこれまで通り再生産されていて,それを熱烈に支持する人たちに受け入れられ,またその支持に応えているようにも感じられる.一方,難波氏の「箱の家」は,シリーズとして位置づけられていることを考えると,おそらく氏は住宅の商品としての側面に少し意識的なのかもしれない.難波氏はそのシリーズをシステムとコンセプトの標準化というキーワードを使って,アイデンティファイさせている.同じような水準の標準化として論じられているが,このふたつは相当異なっている.システムの標準化というのは,工法や平面プランにおける工業的な意味でのモデュールの整理であったり,現在汎用的に使える材料においての工夫である.一方で,コンセプトの標準化とされるものは,より空間のイメージとしての問題である.大きな吹抜け空間の居間に2階へ上る階段があり,南側に大きな庇とテラスがあるといった空間の構成やライティングレールによる照明,即物的な本棚,ラワンベニヤの内装といった材料や部品のもつテイストの問題である.前者の工法の標準化やモデュール化は一般的な工法の工夫によるところが多く決して目新しいものではない.一方,コンセプトの標準化によって誰もがイメージできる特定の印象の空間が,自分のためにアレンジされる,すなわちセミオーダーとしての建築がつくられるという印象をもつという点は,仮に建築を商品として扱うとすると,非常に有効な戦略になり得る.商品化住宅メーカーはその黎明期において,高度成長時代特有の工業製品的なものへのプラスイメージを重ねることでプレファブ住宅を商品化した.しかし,後に社会のニーズの多様化と共に,工法や技術の問題よりも,社会におけるステータスやライフスタイルの表現といった社会的な文脈に照準を合わせることになる.その結果,住宅はそれ自身の性能や機能を越えて,特定のイメージやライフスタイルを表現する広告や展示場という媒体を使って宣伝し,営業するという方法に力点がおかれるようになった.これら展示場の住宅は実際に住まわれるものではないが,来訪する人にそこでの生活のイメージや購入した後の満足感を与えることができる.これは購入される住宅とは必ずしも一致しないが,それはあまり問題にはならない.購買意欲をくすぐるイメージが問題なのだ.住宅メーカーは,これらのイメージを巧みに操作して,「商品化」住宅というかつてない建築の分野,あるいは産業をつくり出した.今,私たちはこの商品化住宅のイメージ戦略のしくみを私たち建築家の側に引き込めるのではないかと考えている.時代も,少品種を大量生産するだけの時代は終わり,情報化や流通の発達の結果,少数を対象にして,ある特定のイメージを特定の人びとに商品として提供できる状況になった.この状況では建築家も同様にある特定の消費者を対象とした商品としての住宅をつくることができるのではないか.まさに難波氏や岸氏の建築を見ていると,建築家が住宅を商品化し得る可能性があると思える.建築家が住宅を設計する際の活動範囲を,オーダーメイドの特殊解としての建築,あるいは作家としての表現の対象としてのみに限定し,その範囲でしか成り立たないクローズドな世界に閉じこもるのではなく,社会で生じていること全体にもっと意識的になれば,商品化住宅メーカーがつくる商品としての住宅を,お客様第一主義ではなく建築家の立場で設計をすることは,ファッションデザイナーやインダストリアルデザイナーが商品化を前提に自らの表現活動をしているように,建築家の表現の手段のひとつになり得るのではないだろうか.

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住宅特集jt9710月評

jtには毎月だいたい15作の住宅が取り上げられているが,それらのデザイン傾向はかなり広範囲に渡っている.モダン系,和風系,工業系,手仕事系,郊外住宅系,都市住宅系,それに集合住宅.こうしたバラエティに富んだラインナップがjtの特徴である.しかしなぜ毎月毎月,まるでファミリーレストランのメニューのようにバリエーションを取り揃える必要があるのだろうか.商業的な戦略(いろんな趣味の読者が買ってくれる)は別にして,その一番考えられる理由は,jtは住宅建築の今の状況をとらえることを目指しており,そのためには偏りのないニュートラルな視点が必要なのだ,という考え方である.確かに,ハウスメーカーや工務店による住宅を別にして,建築家が設計する住宅の最近のデザイン傾向を知るにはバラエティ豊かなjtは他誌に比べてかなり役に立ちそうだ.もし外国の研究者から日本の現代住宅のサンプルを集めるためによい資料はないですかと尋ねられたら,とりあえずjtを教えてあげると思う.でも,jtは本当に今の住宅建築の状況を知るための手がかりになるのだろうか.ふたつの理由から,それは幻想であると思う.ひとつは掲載作品の収集の問題.サンプルはすでに偏っていて,現状を正しく反映しているとはいえない.jtに作品を発表しようとする建築家は総数からいえばごく一部で,雑誌などとは無関係に仕事をしている人がほとんどだろう.そうした人たちの作品の情報は編集者にはなかなか伝わらない.しかも編集部に応募される作品は建築家のほうで雑誌に載りそうな設計だと判断されたものである.8月号の藤森照信氏による「最初の頃の打合せでは,とてもこんなところに載るようになるなんて思いもよらなんだ」という言葉が表しているように,載る作品と載らない作品という区分けをおのおのの設計者が漠然としているのだ.そしてもうひとつの理由が編集者による掲載作品の選別の問題.ニュートラルな選別などはあり得ない.jtの編集者が作品を選ぶ際に,自身の価値観によってそれぞれを評価しているわけであるから,そのセレクトはどうしても主観的なものになってしまう.バラエティ豊かにするためにデザイン傾向の違いで作品を分けるのは簡単だが,それらの中から作品を絞り込むときには自身の評価軸を信じて選ぶしかない.そればかりではない.作家の知名度や,他誌との競合を考えて不本意な選択を行うこともあるだろう.このような事情はいまさら問題にする必要もない当たり前のことである.それをあえていったのは,雑誌には今の住宅建築の状況を知るためのニュートラルな視点など,原理的にもち得ないといいたいからである.原理的にもち得ないのにもかかわらず,バリエーションを取り揃えてあたかも日本の状況をニュートラルな視点でとらえているかのような印象を読者に与えることは危険である.メディアが虚像を既成事実化してしまう構図は,松本サリン事件の第一発見者が犯人に仕立て上げられてしまった事実をもち出すまでもない.読者が自分で判断できるはずです,なんてのはメディア側のいいわけである.このように,jtの作品セレクションが偏っていることが明らかになると,15作品によるバリエーションによってニュートラルなポーズを取ることは意味をなさなくなる.そこでjtをもっと有意義な雑誌にするためにいくつかの提案をしてみたい.ひとつは限界があることを承知のうえで,できる限り偏りのない誌面を目指すというものだ.そのためには掲載作品の数を可能な限り増やすのである.1作品のスペースは見開きか1ページに限定する.ページ数も増やす.巻頭論文や月評はやめる.そうすれば毎号100作品ぐらい載せられるはずだ.そうやってなんでもアリの投稿誌に徹してしまえば少なくとも今よりはずっと状況を反映した誌面になるだろう.しかし,新しい作品を紹介するだけのメディアならば,インターネットのホームページのほうがより早く大量の情報を送ることができるし,値段も安い.それよりも,どうせニュートラルな雑誌など不可能なのだから,いっそのこと毎号思いきり偏った特集を組んだほうが面白い.毎回テーマを決めて編集者の独自の視点で作品を厳選し,編集者が作品ごとに短いコメントをつけ,その作品を選んだ理由を明らかにする.まるで毎回コンペの公開審査をするようなものだから,編集者は大変である.しかし,ポリシーのある雑誌になることは確かである.編集者自身がやるのが無理ならば,テーマごとに専門家による選定委員会をつくり,作品を選んでもらってもよい.月評の担当者が選定委員を兼ねるのもよい.ほとんどDJのノリで今月はメタル(金属)系とか来月号はテクノ(工業技術)系などとやったら毎月購買層が入れ替わり,それによって逆に状況が見えてくるかもしれない.勝手な意見をいわせてもらったが,茶化しているわけではない.山本理顕氏が『新建築』6月号の月評欄で述べているような建築雑誌の行き詰まりをわれわれも感じている.有名建築家が自作を雑誌に発表し合い,月評で別の建築家がその印象を述べ合う.新人は「自分自身の広告」欄で顔写真を載せてもらい,この建築家サロンの仲間入りをする.いかにも公平であるかのようなポーズを取りながら,その実「同人誌」(山本氏)化しているのが現在のjtの姿ではないか.こうした危機感を感じるからこそ,そしてそれが単に編集者だけの責任ではなく,作品の提供者であり,同時に読者である建築家の問題でもあると思うからこそ,われわれはこの月評欄を借りて至らぬ議論をさせてもらっているのだ.山本氏が提案している建築ジャーナリズムと建築家がちゃんと話をするという企画にはわれわれも大賛成である.ぜひ実現して誌上で発表してほしい.

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住宅特集jt9712月評

きみたちの月評はどうも具体性に乏しいのでなんとかしろ,という編集部の意向を受け,今回はいつもより個々の作品に近寄った視点から誌面批評を試みることになった.そこでまずひとつのキーワードを決めた.それは「社会へのまなざし」である.その理由は後述する.それぞれの設計者が住宅を設計するにあたって社会へまなざしを向け,社会との関係を住宅設計のテーマのひとつとしているか否か,これを誌面から読み取ろうとした.ここでいう社会とは建築を取り巻くすべての外的条件の総体を指す.いい換えれば建物単体の問題ではなく,環境や共同体や文化等との関係が設計者の視野に入っているかどうかを見た.こうした問題に対して設計者が意識的かどうかを判断するため,まずは作品解説文を検討し,その次に写真や図面から設計者の意識を推察した.このようにして今回の対象である10月号と11月号の中から,われわれがわずかでも社会へのまなざしを感じることのできた作品を拾い出してみた.まず10月号では今熊野の家(吉村篤一)が都市的な提案を行っている.都市住宅だということで周辺環境に対して閉じつつ内側に開放性を与えるという常套手段を採用している作品が少なくない中で,吉村氏は京都に伝統的に見られる「みち空間」的な通り抜け通路を敷地の中につくり,パブリックなものとしてこれを地域に開放している.実際にこの空間を周辺住民が利用するかどうかは別にして,少なくともその解説文を額面通り受け取れば,設計者が社会へのまなざしをみち空間というかたちで住宅に反映させていることは確かである.また,「周辺の町並みとの連続感も失わないようにした」と述べており,その点でも社会的な意識が示されている.また,Nハウス(永山盛孝)は外部に閉じた一般的な都市住宅であるが,建蔽率で余った敷地の一部を前面道路に向けて「ポケットパーク」として提供している点に社会へのまなざしが表れている.これら以外にも宜次の家(山田正永)や白石コートU(小室雅伸)でも解説文の中で家並みへの配慮が述べられている.敷地周辺という都市的環境とは別に,自然環境に対する配慮もまた社会へのまなざしといえるだろう.太陽エネルギーの利用をテーマのひとつにしているナチュラルハウス・下井草の家(田中謙次)や,はっきりと述べられてはいないがOMソーラーを採用している大磯・伊藤邸(林寛治)がそれにあたる.11月号では袋小路の家(池田靖史)の解説文において社会へのまなざしがもっとも明確に語られている.中庭が都市への拒否的な手法としてではなく「住み手が都市と向き合う場所」としてとらえられていることも興味深いが,それよりも,敷地は「都市からの空間的配分」であり,住宅空間という「都市を構成するこの最小の断片に込められた意志の集積こそが変化の最大の原動力であることは,人間の環境を考えるうえでのほかの問題と非常に共通するように感じている」という言葉に,住宅と社会との関係に対する設計者の確固たる姿勢が感じられた.周辺とのつながりはちっちゃな家(杉浦伝宗)でもテーマのひとつになっており,街路への開放性を地域の高齢者社会への配慮として重視している.またあかしあ台の家(直原純子)では垣根の代わりに円弧状の壁面を用いることで建物を街並みになじませる配慮がなされていると解説されている.以上がわれわれが誌面から判断したかぎりで社会へのまなざしが感じられた作品であるが,結果的に敷地周辺の環境とのかかわりにおいてのみ社会と住宅の関係を問題にしているものが多かった.さて,今回なぜ社会へのまなざしをキーワードとしたかは,住宅における批評性に関係している.11月号巻頭の「住宅のクリティカリティーは今」(松永安光)と題する論文では住宅のもつ「批評性」が問題にされていた.今は住宅に批評性をもたせることが難しい時代であるといわれて久しい.これに対して戦後の高度成長期のような価値観の単純な世の中にあっては,建築家の取り組むべき問題もシンプルだったようだ.たとえば家族とは二男三男を世帯主とする核家族のことであったし,環境とは日当たりとインフラのことであった.しかし今われわれが生きている世の中はそんなにわかりやすい世の中ではない.取り組むべき課題は山積しつつ互いにからまりあい,ひとつの問題の解決が別の問題を引き起こす.かつての住宅に見られた一刀両断的な解決方法はかえって問題を深刻にしてしまう.つまり住宅が批評性をもちにくいのは,批評すべき対象が複雑すぎて,公平な批評を行うのがたいへん難しい状況にあるからだ.こうした批評困難の時代に住宅を設計するとなると,批評性を問題にすることを避け,いきおい建築家自身の価値観の範囲内で仕事をしてしまいがちになる.毎月本誌に掲載される作品の中にも個人的な問題への熱心な取り組みを見せこそすれ,住宅を取り巻く複雑な問題に正面から取り組んでいるようには見えないものが少なくない.今やこうした閉じた傾向に対して,われわれはあらゆる問題に対してバランスの取れた検討を行う姿勢をもつこと自体が,唯一批評性をもち得る方法だと考えている.住宅にかかわるさまざまな問題は,住まい手や敷地や空間といった一般的な建築単体の問題と,前述の建築を取り巻くすべての外的条件の総体としての社会的な問題に大別できる.そのどちらが欠けても住宅に批評性をもたせることはできないのではないか.単体と社会の両方に目を向けることがバランスの取れた,つまりは批評性をもち得る住宅の必要条件であると思う.こうした考えから,今回は社会へのまなざしをキーワードとして掲載作品を見てみたのである.ところで今回われわれの行った作品分析は妥当なものといえるだろうか.言及した作品には批評性をもつ可能性があり,触れられなかった作品には本当に社会へのまなざしが欠落しているのだろうか.実際それぞれの設計者にしてみれば,社会的な配慮などいわずもがなのことで,わざわざ解説してないだけだというかもしれない.その通りだと思う.雑誌の誌面から建築を判断しようとすることが実は建築を一面的に見てしまうことになるのだ.しかしいったんメディアにのっかると,そこに表現されていないものは,もともとないものと見なされてしまう.われわれの独断と偏見による解釈が実は一般的な読者の態度なのではないか.この読者と表現者とのギャップの責任はひとえに表現者の側にある.写真と図面と文章を用意する設計者と編集者の責任である.このギャップを可能な限り埋める努力が必要だ.そうでないとバランスの取れたわかりにくい建築よりもキャッチーでわかりやすい一刀両断的建築が相変わらず建築メディアのメインストリームであり続けるだろう.

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住宅特集jt9802月評

月評12,1月号は,赤坂喜顕氏がミースのテューゲントハット邸を,松隈洋氏が増沢洵のH氏邸を題材とし,その住宅の運命,両建築家の経歴,建築の創造方法をめぐる論考から始まっている.建築家としての態度が問われる現代において,これらの文章はたいへん読みごたえのあるものであった.時代差,国差はあるものの,ミースと増沢を同じモダニストとくくってしまうには,あまりにも対極的な建築家であったことがふたつの文章によって浮かび上がっている.表題のどちらも透明(性)という言葉が使われているが,たとえば柱の消去というテーマを取ったとしてもミースと増沢のアプローチがいかに違うかということがわかる.松隈氏が山本学治の言葉を引用しているように,「つくる創造」VS「えらぶ創造」つまり作家性VS非作家性という建築家の方向性の違いがミースと増沢の間に存在している.松隈氏は,増沢が1950年代に,なかば無意識にもモダニズムのもっとも良質な部分を掘り当てつつあったとし,現代に通じる方法論的態度を読み取る.それらが作家性を表明したものでなく,「透明性」という言葉の響きによってイメージされる建築のニュートラルな存在形態とでも呼べるものともどこかで共振する可能性のありかを示唆するものだとしている.そして,根本的に異なるふたつの創造の方向性があるとするならば,現在の状況においては,「えらぶ創造」の方法により射程の長い可能性が開かれていると述べている.私たちは,5人のイーブンパートナーとして,非作家性を標榜しつつ普遍性の中に成立する建築の可能性を探求している.しかし,現代が必ずしも非作家性の方法により可能性が開かれていると確信しているわけではない.つくる行為の中では,どこか心の中で作家性に立ち返る部分がある.常にその間を行き来しながら建築を試行している.その思いは,同世代の建築家に共通するものかもしれない.阿部仁史氏は,「今日の建築家はきわめて不条理な存在」であり,なぜならば近代以降身体を切り捨てることによってサービス業としてその職能を成立させた建築家が,「身体性の復活の時代」に「自己否定することなく,いかに身体を取り戻すのか」という大矛盾をテーマとすることが現代の建築家の前に提示された問いであるとして,「建築家による建築は,どこからくるのか,どこにそのかたちの根拠を求めるべきなのか」ということにこだわって方法論を展開している(jt9712,かたちと建築家).また,奥山信一氏は「室の配列というゲーム」は終焉したとし,「建築の価値と批評性を,空間の形式にかかわる方法論の世界へもう一度引き戻さなければならない」(jt9801,創作論スケッチ3)と断言する.阿部氏のかたちへの探求の手法に対しては,やや即興的で唐突な感じも受けるのだが,Land Packでのワークショップ,90mのリボンであるという読売メディア・ミヤギ・ゲストハウス(本誌の写真と実際はかなり印象がちがう)の構成と,その背景にある思想に共感し,理解することができる.一方,奥山・若松両氏の住宅(吉祥寺通りの住宅)は,空間を大きくふたつの領域に塗り分けるという方法論でつくられており,その言葉通りきっちりとディテールまで納められた単純構成は非常に魅力的であり,力のあるものだと感じる.しかし,その完結性には多少の息苦しさを感じ,奥山氏が社会への眼差しをあえて断ち切り,住宅のみを建築の批評性の対象とする強引さはどうしてなのであろうかと,とまどいを覚えた.月評を担当し始めて私たちはこの数カ月,本誌で掲載される建築,そして,建築家の書く文章をかなり意識的に分析し読んでいる.その行為は花田氏が12月の月評でいうところの「公共性」と呼ぶべきものをそれぞれの建築家の建築や文章の中に発見し,それらを拾い集め「他者との関係を探る力」で自身と照らし合わせることであった.ここでの「公共性」とはコミュニケーションが成立する関係性ということである.そこでこの関係性が成立する次元が問題となってくる.私たちは,最近本誌でも載せられる住み手の発言や,松村秀一氏の12回にわたるネオ・ヴァナキュラー考の位置づけを,これまで建築家の言葉がかなり閉じられたオタク用語的に成立してきたことに対しての,視点の変換であり,警告であるととらえている.今回のネオ・ヴァナキュラー考での「SI」という言葉の存在は,本誌ではじめて知った.集合住宅(そういえば,本誌では集合住宅は決してメインストリームといえない部分に追いやられている)をめぐるこの「少なくとも現代政策用語としての明確な地位を得るにいたり,ハウジングにおけるひとつの考え方という枠を越えた影響力をもちはじめている」という言葉は,建築家社会には縁遠いものなのである.閉じられた建築家の「公共性」ではなく別の次元での共通言語が求められていると私たちは感じている.そういう意味で,難波氏が標準化と商品化,普遍性と一般性を○と×というような二項対立的なものとしてとらえていることは残念だ.私たちは,[箱の家]が危険性を覚悟したうえで市民権を勝ち得る可能性を想像していた.住宅のプロトタイプを探求する建築家の姿勢を賞賛したつもりだった.けれども難波氏は,無印良品の家具は汎用品で,ル・コルビュジエやミースの椅子のほうが自分の建築によく似合うという.私たちは,建築家の作品をもっと一般的な価値観に近づけるべきだと感じている.またそのためにもなるべく普通の言葉で語りたいと思っている.H氏邸は3代4世帯に渡って住み継がれ,今もその歴代のオーナーと増沢ゆかりの人びとが集い語らう会が続けられている.また,テューゲントハット邸は戦時の波に飲み込まれ,その機能を変化しながらも過酷な歴史に耐えてミース110周年の日に記念美術館として蘇った.どちらも建築家が建物を設計するときに願う夢である.けれども建築がそこに存在し続けるという理想は,その住まい手,公共の理解があってこそなのである.

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住宅特集jt9804月評

建築ジャーナリズム批判を目指したわれわれの月評も今回で最後.編集部からわかりにくいとか,つまらないとかといわれ続けた相当しんどい1年間だったが,どのくらい雑誌の世界にコミットできたのだろうか.最後に整理しておく必要がありそうだ.今回は2月号,3月号を通して,われわれが建築ジャーナリズムに感じている違和感が,何に起因しているのかを確認していきたい.3月号の巻頭を飾るのが,吉岡賞の発表とその審査の様子だ.座談会は,「編集者がつくっている雑誌の枠組みがある.……それを追認するのもどうかなという気がしている」(鈴木了二)と建築ジャーナリズムがあらかじめつくるフレームを疑問視しようというスタンスを基本としていながら,結局は「何をやりたかたったんだろう」(北川原温)が連発されることからもわかるように,表現的つまり雑誌的なわかりやすさを強く求めているという矛盾に満ちたものだ.jtに掲載されたことが前提の賞だということでわざとらしく雑誌にすり寄ることにしたのか,それとも表現的なわかりやすさは雑誌メディアとは無関係に建築にとっての必要条件だとでもいうのだろうか.選ばれた作品に疑問があるわけではない.むしろ,こんな審査経緯で選ばれたことを残念に思う.雑誌というメディアが表現のはっきりとした作品を求めることはある意味で必然だが,この対談を読んでいると雑誌側の要請である表現のわかりやすさと,建築家側が建築を評価する場合の基準とが,正確な対応関係になければならないといわれているような気すらしてくるのだ.最近では,極端な表現から離れようとする態度は建築の世界においてさえもひとつのはっきりとした傾向だと思うのだが,どうもそんなことも審査員の気に入らないことらしい.芥川賞の審査講評を読んでいても,これほどまでの「遠さ」を感じることはない.もちろん,雑誌で目立つ作品がみんなひどいというわけではない.極端な表現に走るなんてことをせず,必要なことだけをしているかのような素気ないつくり方をしていながら,雑誌での表現にもうまくフィットしているという例も少ないながらある.3月号のLime House(北山恒)やパラレル住居U(横河健)などがその好例だ.両作品とも実際に見る機会に恵まれたのだが,雑誌から伝わる嫌味な押しつけがましさ(これが作家性)は強くない.実際の建物の与える印象は,変にやりすぎず,さりげない工夫に裏づけられた気持ちのよいものだ.結局,雑誌向けの顔が別に用意されているのだろう.どちらも,作品自体が3枚舌ぐらいの価値を抱え込んでいるように見えるから,これで少なくとも4枚舌ぐらいにはなりそうだ.ついつい「雑誌ばえなんて関係ないよ」なんていってしまうわれわれには,えらく器用なことに映る.雑誌からはよくわからないものの,実際には日常生活的で気楽な気持ちよさをもった作品が2月号にもある.アニ・ハウス(塚本由晴+貝島桃代)だ.この作品も実際に体験することができたのだが,3月号月評の益子氏の指摘のとおり雑誌からは想像できない爽やかな大らかさをもったものだった.実際に体験すれば簡単に伝わるこの心地よさは,雑誌というメディアの限界からかうまく伝わってこない.益子氏のいうように写真の選択や説明の少なさにも問題があるのかもしれないが,メディアの限界もありそうだ.編集側に責任がないというわけではないが,雑誌を見る側あるいは雑誌に掲載する側が,雑誌の限界に対して自覚的でいなければマズイということなのではないだろうか.ところで,益子氏は「設計者側からの恣意的な場の解釈や限定を避けようとする姿勢が,若い方たちの住居に取り組むひとつの傾向として顕著に見受けられる」とも指摘している.どちらかというと若い側だと自覚するわれわれにも共感できるものなのだが,この延長線上に今年の吉岡賞の審査経緯の世界はなさそうだ.3月号にはわれわれが設計した住宅が掲載されている.月評をやっている間に自分たちの建物が回ってくるなどどは思ってもいなかったのだが,月評子として見るとその扱いの小ささが特徴的だ.このことも先ほどの「雑誌向けのわかりやすい表現指向」と無関係ではないだろう.みかんぐみの建物には雑誌向けの側面が抜け落ちているようで,建築関係ではない知人のひとりは,ずーっと雑誌をめくっていき最後にみかんぐみの作品に至ったところで大笑いしたらしい.聞くところによると,編集意図としては吉岡賞の「超作家」に始まり,みかんぐみの「非作家」に向かって建物の作家度順に作品を並べようとしたということだが,そういう順番にはちょっと見えない.ちなみに,相模原の家で一番大きく使われている階段部分の写真は,われわれの意図から少し外れたものだ.雑誌向けの写真が選択されたということなのだろうが,このことによりわれわれが意図していなかった意味をこの建物がもち始めたかのようにも見える.これまでの月評で,建築家自身ではない外側の人の批評的な視点をもち込むことが重要だといい続けてきた.われわれの作品の掲載にあたっても同じことを望んだのだが,編集部側の提案で2月号の塚本+貝島,3月号のわれわれ,4月号の西沢大良の3者の作品を横断した第3者による分析が行われることとなった.この月評と同じ号に掲載されているはずだ.どんなものになったのだろう.建築家の個人的な思考をより社会的な問題へつなげていくようなものであることを,さらには建築と雑誌が一緒になって内側へ閉じていってしまわないためのガス抜き的なものになっていることを期待している.さて,雑誌の問題である.最悪なのは吉岡賞の対談からイメージされるような,雑誌ばえする表現を求める雑誌側とわかりやすい表現を評価する建築家側が表裏一体になっているという,あまりにも単純な状況だ.この際,雑誌側の問題は知ったことではないが,振り回されている建築家側の問題は極めて大きい.この密接な対応関係が雑誌で紹介される作品群の均質化を推進しているのは間違いない.編集後記で(は)氏がふれる物質的均質化より問題はずっと大きい(編集者の問題ではないか).こうしてみると月評の意義とは一体何なのだろう.編集側が選び編集意図に従って組み上げられた「雑誌の世界」の作品を建築家が批評しているわけで,雑誌が作品を通してつくるフレームを建築家が補強するという関係が雑誌の中に組み込まれているといえる.建築家を振り回す悪意と取れなくもない(まさか気がついていない?).そろそろ建築家による月評の意義を考え直す時期かもしれない.大きなお世話?(ですね).

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曽我部 衣服の気軽さ(新建築node)

 「衣服」の気軽さ
周りの環境と人間の身体を仕切るためのモノだと考えれば、その直接の機能の水準では建築も衣服も同じようなものだ。違っているのは、動くか動かないかといった程度の形式の違いくらいしかないはずなのだけれど、建築の形式がつくりだす重厚さは圧倒的だし、一方、衣服の存在の仕方は軽薄なくらいに軽い。ファッションの水準で考えれば、衣服にも形式がつくりだす重苦しさは同じくらいあるんだろうけれど、普段着の気楽さとでもいうか、衣服という形式には確実な気軽さが保証されているように思える。なにしろ、存在する場所も、状態も固定されていないのだから。
ところで、最近のアウトドアブームにのって、キャンプにときどき出かける。たいていのキャンプ場では、大ざっぱに敷地(テントサイト)が決められていて、そこを使う人たちが、それぞれ、周辺の環境やそこから見える風景、風向き、陽のあたり方などを考えてテントやテーブルの配置の計画をする。それぞれのテントサイトにテンポラリーな設計者がいるようなものだ。サイトから周りを眺めたりしていて思いついたことを頼りに、アドリブのように計画していく。そのセルフなプロセスと、あっと言う間に計画が完了してその状態が続くのもほんの数日であるというインスタントな宿命から、キャンプサイトの印象は気軽でいい加減。この気軽さが心地よくて、組み立てたり片づけたりする作業が大変なのにも係わらず、くりかえしキャンプ場へ向かうことになるわけだ。キャンプサイトに適当に並べられているテントとかは、建築と呼べるようなものではないのかもしれないけれど、このセルフでインスタントな気軽さを持った状態は、衣服の持っている気軽さと同じ種類のもので、こういう状態を建築のフレームの中で実現することを考えることが、衣服を通して建築まで拡げて考えるということだと思った。「衣服だって建築だ」といって大ざっぱに結論づけるのは簡単だけど、それだと何も可能性が広がらないんじゃないだろうか。
そんなことを何となく気にしているときに、海水浴場にいった。利用者として行ったのではなくて、たまたま最近設計をはじめたばかりの計画地の近くに海水浴場があったのだ。それだけに、思考が建築モードだったみたいで、その海水浴場をみていてセルフでインスタントな気軽さを生む構造をひとつみつけた。写真の海岸なのだけれど、海岸の境界にそって、ちょっとレトロな感じの海の家が建ち並び、そこから海までの間を、色とりどりのビーチパラソルが埋め尽くす。海の家は夏になるとパタパタと立ち上がる伝統的な木造の仮設建築で、そのディテール(と呼ぶようなものでもないか)は必要十分でさりげない。特に、ハイシーズンで売り手市場の海の家には、経営的にもそれほど押しつけがましさが感じられないし、内部のデザインにもわざとらしい空間的な演出はない。その上、平面的な効率の悪さがうまく機能していて、意地汚いセコさを感じさせることもない。海水浴場が求める需要に、必要十分、つまり最低限の対応をするものとして、海の家が機能しているのだ。そして、海の家が提供するサービスにバックアップされて、海の家の前の砂浜はビーチパラソルやレジャーシートやサマーベッドによってつくられるその日限りの場で埋め尽くされ、海の家の中には「氷」の文字の暖簾やちゃぶ台や椅子がテンポラリーな場をつくる。こうして、この海岸にたくさんの個人ためのの場が集合して「海水浴場」のスペースとして完成するというわけだ。それは、セルフでインスタントな気軽さにあふれ、身体的な欲望に単に機能的に対応しただけというスガスガしさもある。つまり、あらかじめ準備されているものが十分かつ最低限であり、それ以外のほとんどのことが、その後の成り行きと、そこの場所に参加している人の存在に委ねられているのだ。これが、衣服のような気軽さを生む、基本構造のひとつなんじゃないか。この海岸を眺めていて、そういうことに気がついた。


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曽我部 新建築2001.1月評

また月評なんて面倒なものを引き受けてしまいました.いつも,引き受けた後でしまったと反省してるんですが,まったく学習できていません.編集の方からは,新しい試み(本誌をめぐって誰かにインタビューをしてそれを文章にまとめるとか)をしてもいいだとか,本誌の内容に関してはちょっと触れる程度で気軽な気持ちで書けばいい,などといわれましたが,どうも口車に乗せられたようです.気軽にとかいっても,しょっぱなから青木さんの論文です.くやしがってもしようがありませんし,あっという間に締切です.新しい試みについては今後よーく考えるとして,まずは12月号.
ということで,この号で注目すべきなのは,なんといっても青木さんの論文「リノベーション──形式と自由」ではないでしょうか.本誌に掲載されているあらゆる作品も,この青木論文によって相対化されてしまうといっても過言ではありません.正確には,作品の相対化ではなくて,建築家がデザインに対して取っているスタンスの相対化.ここでは試みに,巻頭で紹介されている伊東豊雄さんが審査したコンペ「新建築住宅設計競技2000」(課題:ファイナル・ハウス)の入選作を,青木論文をもとに分析(というか分類)してみたいと思います.すでに審査されたコンペの入選作品について何かをいうというのも,ちょっと反則っぽいですが,こういったコンペではデザインに対するスタンスがわかりやすく表れるので,とても都合がいいわけです.ここはひとつご容赦ください(伊東さん).
十分に理解ができたのか不安なので,簡単にはまとまりませんが,はじめに青木論文の要旨を整理してみます.青木さんの言葉と,青木さんが引用した言葉と,僕の勝手な解釈とが混ざってますが,おおむね次のようなことでしょうか.つまり,建築家であろうと施主側の人たちであろうと,われわれの判断や要望は何らかの形式(社会的な制度がつくる構造.大雑把には常識)に後支えされたものであり,どんな形式にも属さないなんてことはありえない.その一方で,形式の外に出たいと建築家が望むのはまっとうな欲求なんだけど,そうすることすらもすでに建築的形式の内側での判断である.しかし,形式を追認するだけの作業なんて,とてもじゃないけどやりたくない.であるならば,まずは形式を全部引き受けて,その形式を思いっきり運用することで新しい何かに到達できるような,そういうことを考えたい.勝手な解釈が少し入ってしまいましたが,大枠としてはこういうようなことだと思います.共感できるスタンスです.ただ,個人的な興味からすると,このリノベーション的な決定の仕組みが,ほかの青木さんのプロジェクトでどのように働いていたのかも知りたいと思ってしまいます.ところで,この文章を読んだ後に,もともとのきっかけであるらしい丸山氏の論文*1を読み返してみて気がついたのですが,どうやら青木さんは,丸山氏の論文の中から青木さんがもっている形式と重なる部分を見つけて,その部分を思いっきり運用して展開した論,をつくり上げたかのようです.つまり,この文章も青木さんが目指すスタンスに従って書かれているとも見えるわけです.そんなことを考えながら読んでいると,行間が気になってしょうがありません.つまらないことを気にするのはやめます.ともかくその上で,丸山氏のスタンスは,何やったって何らかの形式に回収されるんだってことはわかっているけど,一時的にでもその形式から自由になれたと夢を見るための一回性の賭けとして建築を考えている,というものだと位置づけられています.
この論に従って,建築家が形式を巡って取っているスタンスを分類すると,まず,形式から自由になれると信じているグループ(うんざりだ@丸山氏タイプ*2)と,そういうことすら形式的あるいは幻想であると見なすグループのふたつに分かれます(その前に,そういう形式の存在に無意識なグループというのがありますが,ここでは省略).さらに前者は,どういう形式を援用するかでタイプが分かれ,また後者は,形式を外側から操作しようとするタイプ(一回性の賭タイプ)と内側から操作しようとするタイプ(リノベーションタイプ)のふたつに分かれます.さらに具体的には,何に注目するかでいくつかの手法に分類されることになります.
さて,コンペ案の分類に入りたいと思います.まず1等錦織真也案.これは形式から自由になることを信じているタイプ.もうちょっと解説的にいうと,開放的身体感覚(これもひとつの形式)によって,建築的な形式(壁とか)や社会規範的な形式(家族とか)を解体・再構成することを目指しているようです.生物学的な手法なのでしょうか*3,分析の仕方は明快で美しく,そのグラフィックも魅力的です.しかし論法的には,丸山氏のいうところの定番的.身体感覚をよりどころにしているあたりは,その典型といっていいでしょう.「うんざりだ@丸山氏タイプ」です.次に2等セラノ・不法占拠案.これは微妙な線上.つまり,将来像を律するシステムとしてグリッドをつくっているのだとすると,これは建築的形式の内側(伊東さんも初原のメタボリと評しているし).でも,もともとの不法占拠地に引かれていたグリッドに注目し,さらにそのグリッドと不法占拠者によってそこにもち込まれたものたちとの関係に注目して,それらの積極的な運用として構想された案だと見なせなくもありません.そう見ると,この案は青木さんが標榜しているスタンスに近いかも.ということで多少無理もありますが「リノベーションタイプ」.次の空港案はノマド的生活感をジェット機まで引っぱり出してきてチャカしている感じが楽しそうだし,その次の情報ユニットみたいなのは,その開発されたプログラム(建築のではなく情報処理のプログラム)が新しそうなんだけど,どちらも「うんざりだ@丸山氏タイプ」.このタイプにもたくさんの可能性が残されているようです.残りの作品は,情報が少なくって読み取り切れませんが,おそらくほとんどが「うんざりだ」タイプでしょう.うんざりだというのもわからなくはないんですが,でもやっぱり十分楽しめます(こういうこというとバカとかいわれるんでしょうけれど).審査というフィルターがかかっているので,当然といえば当然ですが,「一回性の賭タイプ」はないようです.ちなみにぼくは,つくる立場としては,形式を基本的に全部引き受けた後で何ができるかを考えたいので,リノベーションタイプに近いところを目指しているように思いますが,見る立場としては,みんなが同じようなことを考えていてもしようがないので,いろんな立場があったほうがおもしろい.周りを否定することで自分を定義したって迷惑なだけだし.もちろん,楽しめないっていうんじゃしようがないけれど.

*1:新建築2000年6月号「建築的反省」.また隈さんの「負けるが勝ち/形式対自由のゆく末」(本誌0008)もきっかけのひとつとなってますが,1回の月評で語ろうとすると内容的に混乱するので,ここでは省略.
*2:「建築的反省」でのうんざりだ発言参照.青木論文でも引用あり.
*3:プロフィールを見ると東北大学理学部生物学科卒とあります.

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そがべ SOGABE 新建築2001.2月評

コールハース(以下レム)のプロジェクトは読んでいて楽しい.『a+u』1月号の「OMA ユニバーサル・スタジオ」特集号は,多角的にかつ緻密に構成されたひとつの物語.淡々と語られるダン・ウッド(担当チーフの人らしい)の日記のような解説文,マテリアルや建物内部の風にまで及ぶ分析とその解説,それらを裏づけるディテール,さらにはバーチャルではあるもののそこで生活する人たちの日常にまで踏み込んだストーリーなど,あらゆる情報が満載だ.それらがひとつのパッケージに納められ,それは正しく仮想の都市を立ち上げる物語だ.描かれている事柄相互の関係を,読んでいる私たちがつくり上げていくような仕組みになっていると考えれば,1冊の本というよりは,何度でも楽しめるロールプレーイングゲームのようなものだともいえる.われわれは建築的青春をレムと共に過ごしてきたようなところもあって,楽しめるのが当たり前なんだけど,そういう人でなくても十分楽しめるはずだ(ちょっとほめすぎたか).
ここで確認すべきなのは,今日的な建築の構想のされ方を考えたときに,カタログ的建築雑誌よりもこういう方法のほうが向いてる場合が少なくないんじゃないかということだ.話をレムに戻そう.当然ではあるけれど,これからの「建築のゆくえ」(本誌1月号巻頭の「シリーズ/座標を探る」の磯崎×伊東対談)を考える上でも,彼の方法ははずせないわけで,この対談の中でも,彼の最大の特徴であるスタンスの軽さ(「グローバリゼーションの経済的メカニズムに乗ればいい」:磯崎)や,社会問題として建築の切り口の発見する手法(「現代の事件にナイフを突き立てる社会部の事件記者」:伊東)が紹介されている.こういった独特のプロセスの結果がこの計画の中にも見つけることができて,この発見が読んでいて楽しい理由だろう.レムの建築は,建築を構想するプロセスと,そのプロセスの中での発見をもとに構築されていて,もともと計画を読み込むことが楽しめるものなのだ.だから,こういう作品の紹介のしかたはとても正しいのだけど,裏を返すと,いつもの建築雑誌的方法ではこういう読みとりは難しい.

ところで,彼はプログラム表現主義建築ブームの元凶のようにいわれることがある.つまり,その建築計画に固有の新しいプログラムを開発して,そのプログラムを図式化したものを建物の形にわかりやすく表現することが,はじめから設計上の目標であるような設計方法の大ブームをつくった張本人といわれているわけだ.たしかに,そういった流行をつくったおおもとではあるのだけれど,彼自身は原理的な表現主義者ではない.プログラムにばかりこだわっているわけではないけれど,結果としてプログラムにかかわる操作(発見)が多く,そしてそれをそのまま建築の形式に置き換えているために,プログラム表現主義に見えるのだ.実際には,余計なことをせずに「発見」したことをそのまま建築にしようとしているだけなのだ.まあ,それが表現主義的なんだけど,原理的にプログラムを表現しようとしているわけではなくて,あくまでも自分が発見したもののまんまで,余計な建築的な操作を差し挟みたくないというわけだ.その結果,アウトプットのテイストが強くなり,独特のスタイルを生んで,彼自身によってではなくて,彼のフォロワーたちによって,そのスタイル(ここでは原理主義的プログラム表現主義あるいはそれっぽい外観のこと)が再生産され消費されていくようだ.ここのところが,はじめに書いた建築雑誌の形式とかかわるわけで,カタログ的な建築雑誌の表現とスタイルの再生産的建築の方法とが,相互補完的な関係になってしまっている.雑誌のほうはほかにもいろいろな理由があってカタログ的なスタイルを選択しているんだろうけれど,建築をつくる側がそれに頼って自らの建築の形式を定義しようっていうのは,ちょっと情けない.
レムにとって,特徴的なスタイルの生産が二次的な問題であることは,彼の作品群を広く見ていれば明らかだ.先の対談での磯崎発言にあるように,個別のナショナルがつながってできたインターナショナリズムの時代から,境界の存在をもともと前提にしないグローバリズムの時代に移行しているのは明らかなわけで,すべてのスタイルや形が等価なサンプリング対象として存在している状況だと考えれば,スタイルや最終的な形の問題だけにこだわっていたって,ばかばかしいだけだ.ここまでは,もう当たり前のことだと思うのだけれど,なぜかこのプログラム表現主義的な「スタイル」は衰えることなく建築関係の雑誌に定期的に登場してくる.もちろん現代の事件にナイフを立てることもなく(この号にも典型的な作品が2点ほど……).
さて,逆にこの号で一番レムのスタンスに近いものはといえば,クライン・ダイサムの「Wonderwall」.建築論的ないろいろとややこしいことよりも,現実のほうがすげーやっていう乗りは,もうほとんど同一のもの.このこだわらないスタンスとそこでの思いつきは,かっこいいというか,うらやましいというか,「だったらお前も自分でやってみりゃいいだろっ」っていわれてもしょうがないみたいなものだ.思いっきり現代の事件にナイフを立てちゃってます.

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そがべ SOGABE 新建築2001.3月評

2月号の『新建築』は,どうみてもマテリアル特集号.土(「W・HOUSE」の版築),アルミ(伊東豊雄のアルミ計画案3題「アルミ・ストラクチュアの可能性」),段ボール(佐藤慎也のペーパーユニット「段ボール製のPaper-Unit」)など,素材挑戦型の作品のほか,リノベーションのプロジェクト2題も素材指向的だ.そう思い始めると,巻頭の38条認定についての論文「なぜ38条はなくなったか」も,隈さんの連載「自然とは何なのか」も,素材特集号の一環と思えてくる(理由は後で).『JA』40号の広告ページには,ご丁寧にも「今回は,全作品について〈素材〉の使われ方を詳細図で紹介します」なんて書いてある.なんだこれは.編集部内でマテリアルブームでも起きているのか.素材について考えることって,そんなに一般的な話題になっていたんだ.僕は好きだけど.
この際だから,時代の流れはマテリアル,ということにしておこう.実際,素材の可能性を考えることは魅力的な作業だ.新しい素材を考えることで,新しい工法や形態,さらには新しいビルディングタイプさえ生み出すのではないかという期待(あるいは錯覚)をもって,新しい可能性に挑むことができる.特にストラクチャーを構成する素材は,つくられる建築のかなりの部分を規定する.この水準で新しいことを考えていて,つまらないはずがない.ところで,コンクリートと鉄の発見がモダニズム建築の大前提である,なんてよくいわれるけれど,いま僕たちが素材を前にしたときには,そんな重ったるいことを考えてはいない.たぶん.このマテリアル特集号に掲載されている作品にかかわっている人たちも,きっとそうだ.極言すれば,僕たちは素材を考えることで,可能性を考えるきっかけを楽しみたいのだ.

建築を考えるときの素材へのアプローチは,大きく次のふたつに分けられるようだ.ひとつ目は,素材のテクスチャーが引き寄せるイメージを問題にする場合.「W・HOUSE」はその例のひとつか.テクスチャーが生み出す意味を利用して,その場所の雰囲気をつくる.ふたつ目は,素材の操作によってどんな特性を引き出せるかを問題にする場合.アルミと段ボールはそちらに近い.素材の特性に思考を巡らせ,どのように加工,成形し組み合わせるのかを考えることによって,建築を立ち上げる新しい方法を見つけ出そうという立場だ.実は3つ目として,素材の問題を考えることを潔しとしない,つまり,建築の本質的な価値に素材の問題はかかわらないという立場もありそうなのだけれど,今回は省略(本稿の前提は「時代の流れはマテリアル」である).さて,はじめのふたつのアプローチについてだけれど,本来これらふたつの間にはそれほど明確な区別はなくて,イメージのことも操作のことも同時に考えられるはずのものなのだけれど,建築家のスタンスについては,これが割とはっきりと分かれているような気がする.分かれているというよりは,優先順位がある.
素材は単眼的に見ていても,その可能性は知れている.より多面的に,多層な特性の集合として考えることで,予想外の発見へと至る楽しさを体験できるのではないかと思う.だから,構造だけとか特定の機能だけを考えているというよりは,その素材の特性を生かす,より多くのトピックが同時解決できるような発見を目指すことが,素材を考えるということなのではないだろうか.プロダクトデザインを例に考えるとわかりやすい.たとえば,家電業界ではマグネシウム筐体が,最近ひとつの標準になった.柔らかいマグネシウムに表面処理で硬度を増し,加工性のよさを生かし特別な発色を生み出す.同時にリサイクル法の問題を解決し,携帯型の筐体に要求される軽く丈夫であるという条件もクリアする.コスト的な検討がすんでいるのはいうまでもない.そうして生み出されたその独特の外観は,家電の新しいイメージをつくり出している.そういったいろいろなことまで視野を広げた上でのデザインなのだ.そういう意味では,はじめに分けたふたつのアプローチに,本来,区別は必要ないのだが,そうもいかない.ひとつ目の,素材のイメージを問題にしているスタンスの場合,その見え方ばかりが気になって,素材がもつほかの特性に迫ることがまずないからだ.逆に,操作の問題として素材を考えることの中には,イメージの問題を含み得る.さらに,操作の問題として素材を考えることの追い風になっていることとして,38条認定がなくなったことがある.なくなった背景については,この号の巻頭にあったけれど,ともかく,法的なこととも折り合いがつくとなれば,新しい素材のことを考えるチャンスが広がったのは間違いない.
素材についてのふたつのアプローチは,自然(あるいは環境)について考えることとパラレルな関係にある.何といっても,素材は自然から抽出された物質への操作によって生まれているわけで,素材を操作の水準で考えるということは,自然を少しずつ人工化するプロセスをデザインするということなわけだ(このへん,太田浩史さんの影響大).だから,自然の問題をイメージで考えていると(これが隈さんがいう,二項対立的に自然を考えるスタンスと解釈させていただきました)閉鎖的な議論にしかなり得ず,多面的な操作の水準で考えることで(これが両義的?)積極的な可能性を求める議論になるということだろう.ということで,マテリアルイヤー.楽しい時代になりそうで

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そがべ SOGABE 新建築2001.4月評

「せんだいメディアテーク」(以下Smt)はいろいろな意味で興味深い建物だ.いわゆる建築雑誌的なメディアで伝わりやすいのは,その独特の美しいたたずまいや,これまでにないテクノロジカルな解法の新鮮さ,そしてそれらを支えるディテールだったりするのだろう.そういったことは,Smtの特徴的な側面ではあるけれど,そんなことだけでこの建物を終わらせてはいけないはずだ.注目すべきなのは,この建物の,あるいはここに立ち上げられた場所の生い立ちであり,その結果としての建物全体の様態ではないだろうか.その部分にこそ,最大の問題提起があるように思う.ものをつくる上で,建築家がどこまで社会に向かって開いていくのかということについての問題だ.3月号のいくつかの記事は,そのことを考えさせるものだった.今回はSmtによる,この問題提起について考えたい.
はじめに,伊東豊雄さん本人の意図がどういうものであったのかを確認する必要があるだろう.特集のはじめの論文(近代を超える「もうひとつの空間」)によると,アジアの都市のような流動的で包容力のある空間の実現を目指したとある.より具体的には「ここにしか存在し得ない場所性」の連なりをつくることが目指された.はっきりとは語られていないけれど,公共空間のことが問題になっているのは間違いない.ユーザーのアクティビティを誘発するような,さまざまな場所性を生み出すことが意図され,その目標が,チューブのある風景や,チューブの存在を前提とした平面計画によって実現しているというわけだ.問題は後半の部分である.アクティビティのきっかけとなる場所性というのは,一体どんなものなのだろうか.そして,それは本当にチューブによって実現していることなのだろうか.正直なところ,ちょっと煙に巻かれているような気がしてくる.

アクティビティを誘発するような場所性が,どういうふうにつくられたのかが気になるところである.はじめに,「アクティビティのきっかけとなる場所性をつくろう」という伊東さんの意図が,成功しているかどうかについてだが,「人びとが使い始めた瞬間に,人びとの活動だけが浮かび上がってきた」という妹島和世さんのレポート(せんだいメディアテークで感じたこと)を読む限り,うまくいっているようだ.Smtでワークショップを行ったという本江正茂氏×中西泰人氏の対談(連載:サイバーアーキテクチャーとは何か──空間リテラシーと情報リテラシー)においても,アクティビティを発生させる装置的な場所が実現しているという認識を前提にしているからこそ,ユーザー(利用者&運営者)のリテラシーについての議論が展開しているのだろう.なるほど,ユーザーの自発的なかかわり合い(活動)を誘うインタラクティブな場所をつくるという目標は達成しているようだ.だとしても,ゆらめく海草をメタファとしたスケッチを建物として実体化しただけで,人びとのアクティビティが誘発されるような,流動的で渦のような空間が生まれたりするものなのだろうか.インタラクティブに作用するような場所をデザインするためには,設計プロセスの中で重要なことが,いくつか抜け落ちているような気がする.やっぱり煙に巻かれているのだろうか.
この見えないプロセスは,小野田泰明さんの論文(コミュニケーション可能態としての建築へ)の中のふたつのキーワードによって説明されている.「ダイヤグラムからコンセプトへ」と「アンダーコンストラクション」だ.前者は,「メディアテークとは何か」という議論をもとにメタレベルのコンセプトがはじめに立ち上げられ,逐次それを参照して建物の各要素が構成されていったことを語るキーワードだ.機能の配列としてのダイアグラムに従って計画を詰めていくようなやり方とは対照的な方法だ.ダイアグラムは個別の機能をヒエラルキカルに解決するので,強いわかりやすさを生み,ユーザーは受け身な立場でそれに従うことになる.それに対し,序列をつくることなく,いろいろな問題をフラットに(=逐次個別に)検証するというコンセプト参照型の方法では,ユーザーの自発性を喚起するルーズフィットな状態がつくられ得る.そのために必要不可欠なのが,メタレベルのコンセプトというわけだ.山本理顕さんもSmtの設計プロセスについて同じような指摘をしている(共感という思想).伊東さんの固有のイメージが周囲の人びとに共感・共有され,その上で生まれた変質を伊東さんが積極的に引き受けることで,豊かで過激な建築になったということだ.伊東さんの固有のイメージもある意味ではメタレベルのコンセプトだ.具体的には海草のような初期スケッチやコンペ時のイメージモデルが,逐次参照されるヴィジュアルコンセプトとして機能したのだろう.山本さんの話は,設計を進めていく段階でかかわる人たちとの関係についてのことなのだけれど,この設計プロセスのつくり方こそが,ユーザーの自発性を喚起する状態を生む,つまりアクティビティを誘発する場所性をつくる鍵なのではないだろうか.
そしてふたつ目のキーワードが「アンダーコンストラクション」だ.はじめに煙に巻かれているような気がした理由のひとつに,人びとのアクティビティという絶えず変動していそうなものが,チューブという固定した表現によって実現しているという論理にあった.小野田さんがいう「アンダーコンストラクション」は運用のレベルでの問題かもしれないが,建物の竣工が施設としての完成を意味しないというスタンスは,計画に大きな影響を与えているはずだ.実は伊東さんも「最終的な最適解を静的に描くのではなく,常に流動的な状態のみをシミュレートし続けるような動的概念」のリアリティを語っている.しかし,ひとつ目の「ダイアグラムから……」について,建築家の積極的なかかわり方の糸口が見えてきたのに対して,ふたつ目の「アンダー……」については,建築家のかかわり方が具体的には語られていないし,想像するのも簡単ではない.流動的な状態をシミュレートすることと,流動的なイメージをもった空間とは,直接の対応関係にはないように思われるからだ(どうも,この手のいい回しで煙に巻かれてしまうような気がする).しかしこの水準においても,より具体的に,あるいはより直接的に建築家がかかわっていくような方法の模索があり得るのではないだろうか.実際の運用の水準にまで建築家が踏み込んでいってもいいのではないだろうか.
やはりSmtは,これからの建築がどのようにつくられていくべきかを考えさせる,大きな問題提起となっている(字数がまったく足りない……).

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そがべ SOGABE 新建築2001.5月評

ついに『新建築』4月号では,住宅掲載件数が全掲載作品数の50%を越えた(集合住宅2棟を含む).なぜかよくわからないけれど,住宅掲載件数が右肩上がりというのも,このところの『新建築』の新傾向のひとつ.住宅にばかり,注目すべき作品が集中しているということにでもなっているのだろうか.それに,『jt』との関係はどうなる? 新建築社としては,特別に『新建築』と『jt』とのすみ分けを考えているわけではないようだけれど(考えたほうがよいような気もするが),同じ作品が両方の雑誌で取り上げられることはない.誌面の雰囲気としても,住宅という同じビルディングタイプを相手にしているときにさえ,この2誌の間にはわりとはっきりとした違いがある.

『j t』月刊化15周年をうたう5月号の宣伝(編集者からのオフィシャルなコメントって,新建築社の雑誌では宣伝と編集後記くらいのもの)では「住まいをめぐるさまざまなトピックスを積極的に取り上げていきます」とある.住宅をめぐって起こるいろいろなことを,具体的に広いレンジで語ろうということのようだ.そう,『jt』は具体的なのだ.ちょっと大雑把ではあるけれど,対する『新建築』は抽象的.住宅として求められるトピックをそのまま紹介するようなことは,比較的少ない.これら2誌の差異が気にかかってきたついでに,住宅の問題を具体的に扱うことと,抽象的に扱うことの違いについて考えてみたい.
住宅の問題を具体的に扱うということを,より具体的にいえば,そこで要求されている機能を細分化した問題として整理し直して,そのひとつひとつの問題について,直接の回答を試みる,ということになるだろう.重要なのは,問題を「細分化」してとらえるということと,それらに対して「それぞれに直接」の回答を目指している,ということだ.問題を細分化するからこそ,直接の回答が可能になっているともいえる.そこが具体的であることを確保するためのポイントだろう.かつて,みかんぐみでも「トピックの豊富化を目指す」と表明したことがあったが,そのときにイメージしていたのは,細分化した問題へひたすら具体的に回答し続けることが,その圧倒的な回答の量によって全体として抽象的な回答となるような状態だった.あのときには「具体的な回答だけしとけばいいじゃん」というような達観と誤解されることもあったけれど,そんなことがあるわけがない.トピックの中にヒエラルキーをつくらないというのも,「時代の空気」と簡単に解釈されたりもしたけれど,実のところはひとつひとつの回答の意味を問題にすることなく,淡々と回答を積み重ねることが抽象的な全体を獲得するひとつの方法ではないかと考えたのだ.
自分たちのことはともかくとして,話を戻して先に進めよう.具体的な問題への建築家による回答というやり方でつくられた論理で面白いと思えるものはあまり多くない.それぞれの回答はたいてい当たり前のことだし,当たり前でない回答というのも不必要にエキセントリックなものだったりすることが多くて,そういう作品は見ているこちらが虚しくなってくる.そういう状況の中で,『jt』4月号「プレタポルテのいえづくり」で紹介されているF.O.B HOMESをはじめとする作品群は例外のひとつ.建築を巡るマーケットの問題を建築家がテーマとすること自体が珍しい,というよりなかばタブー視されていたわけで,そういった意味での新鮮さが,興味を引く原因になっているのだろう.また,マーケットに対して具体的な回答を試みた結果,作品という枠組みそのものも,単体の建物にとどまることなく流通の問題にまで広げられている.
『新建築』の抽象的な雰囲気をつくり上げている作品といえば,4月号では青木さんの「i」が典型的.いや,青木さんの文章を読んでいたからこそ,具体的/抽象的という切り口で『新建築』と『jt』の差を考え始めたのかもしれない.何しろ,住宅をめぐる細分化されたトピックを話題にしながら,そういったことをめぐる論理の展開が「見えてこない」ことが肝要であるといっているのだ.「i」のための青木さんの文章「廃墟」で,そこまではよくわかったのだが,問題はその先である.3月号の月評で伊東さんの「せんだいメディアテーク」の「メタレベルのコンセプト」のことを考えていたとき,実は青木さんの「決定ルール」と重なって見えていたのだが,いずれの場合も,その決定のプロセスが今ひとつ具体的に見えてこない.お二方とも,そんなことはわざわざ見せるようなものじゃないんだよ,というのかもしれないが,読み取る側としてはそこがわからないと,どうも腑に落ちない感じが残って気持ちが悪い.新建築4月号においては,「i」は素材特集の中の1作品として位置づけられていることもあって,その最終的な回答が素材の見せ方にあるといわれているようで,何とも,いろいろと考えさせられてしまうのだ.

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そがべ SOGABE 新建築2001.6月評

ひたすら建築への視野を広げ続けるサイバー研の連載だが、今回はひときわ明快な視点を示すものだった。入江経一の「地形的な建築へ」。とても興味深い(これはサイバーか?という疑問もあるけど、編集後記で「サイバーだ」とあらかじめ答えられちゃってます。IAMASはサイバーなイメージだけど)。全生態系のなかで地形あるいは地勢が担っているような役割を、社会環境の中で建築が担おうという、メタフォリカルな提言だ。建築家がデザインするときのスタンスの表明ともとれる(いろんなものに触手を伸ばしていながら、しかし同時に相当引いたスタンス)。その結果の具体的な方法のようなものが示されていないので、「時代の気分を語っているだけだ」とかっていうような陰口が聞こえてきそうな気もするけれど、こういったことに一々具体的な内容を求めることこそが、地形的な建築の発想を妨げる一因だともいえるだろう。一つの建築について考えるときに、その周辺で起こっていることへの具体的な対応を越えたところで得られる、ある種の抽象を獲得しようというスタンスでもあるわけで、性急な具体化は議論の陳腐化をまねくことになりかねない(先月の月評でふれた、新建築=抽象的/jt=具体的の図式にもちょっと似ている。相当大雑把ですが。そういや、あそこではプロセスの具体化を求めてしまってました。舌の根も乾かぬ内にって感じですね。すいません)。そして、このスタンスでものを考えるためには、動線や機能といったことをきっかけにするという、これまでの建築の考え方が邪魔になるというわけだ。言ってみれば具体的な評価の方法に対して距離を取ろうとしているともいえる。気をつけなければならないのは「邪魔になる」という言い方だ。つまり、これまでの建築の考え方に対してのアンチの表明ではないのだ。
今回の学校特集(「開かれる教育空間」)は、地形的な建築について考えるのにちょうどいいサンプルになる。大きなお世話であることは間違いないが、「地形的な建築へ」的価値判断をこの中に当てはめてみることで、「地形的」の具体化に迫ってみたい。(陳腐化したって、叱られそうですが。)
「教育」をアクティビティを示す言葉ととるのか、制度的な枠組みと取るかで、この特集に対する判断はちょっと変わるのだけど(実は根っこは同じ)、特集の内容を見る限り、これは学校建築というビルディングタイプ(以下BT)を切り口にした特集だといっていいだろう。BTに対して建築家がとる態度には大きく3つの傾向が予想される。BT順応型、BT反逆型、BT無視型の3つだ。BT順応型は、これまでのBTをそのまま踏襲して建築をつくろうというような、言ってみれば制度的な枠組みの再生産を行おうという態度で、雑誌の性格もあってか今回の特集の中には無い。あるのはBT反逆型とBT無視型の二つ。どちらのタイプの場合も、これまでの学校のあり方でOKだ、などとは思っていないのだけれど、その後の論理の組み立て方が大きく異なる。前者は、これまでの学校建築のつくられ方に問題を感じ、そうやって造られたものとは違う建築を実現しようという態度である。つまり、ステレオタイプ的学校建築に対してのアンチなのだ。後者は、そういった枠組みに無関心を装う。ステレオタイプ的学校建築がどういうことを要求するものなのであれ、それはいったん棚に上げて、その延長線上の議論を回避しようというわけだ。入江さんの「邪魔になる」という言い方は、まさにこのBT無視型的だといえるだろう。BTはアクティビティと空間の形式との制度的な関係を実体化したようなものだから、社会的な制度を建築の形式で言い換えているようなものだ。だから、アンチであっても、この社会的な制度を前提としている以上、それを強化してしまう(アンチジャイアンツの存在がジャイアンツ人気を強化しているようなもの)。そこで、そんなことは知ったこっちゃ無いと、BTへの無関心を装おうというのがBT無視型だ。さて、今回の特集で扱われている具体例をみてみよう。基本的には、「これまでの建築像を変えるぞ」という意気込みにあふれているわけで、だからどれもBT反逆型的なのだけれど、一際異彩を放つのが八重樫直人+ノルムナル。解説を読んでいても、「学校だからどうあるべきか」などということについては全くふれられていない。具体的なアクティビティに直接つながるようなアイデアもない。ある状況を生み出すまでのプロセスだけが淡々と語られる。分析的なプロセスを元に、相当引いたスタンスの建築を実現させようというわけだ。BT無視型プロセスによる地形的建築といっていいのではないだろうか。また、小嶋さんの文章も後半はBT無視型的だ。学校建築を設計してきた経験や知識からか学校にまつわる話が少なくないし、FLAと呼ばれる場所をつくろうというような話はBT反逆型的なのだが、全体の設計プロセス、例えば、たくさんのエンジニアリングを重ね膨大なフィードバックを繰り返すというのは、「気象や植生などのさまざまな要素の影響を受ける地形を砂漠にしないようにしている」かのようだ。それから、打瀬小学校がシークエンス的であったのに対して、今回は歩き回るときのリズムのようなものに昇華できたと書かれているが、それこそまさに地形的だといえるのではないだろうか。それから原×山本対談では、一番最後の山本さんの発言にある「さまざまな人たちが参加できる仕組みをつくる」というのが地形的な発想と言えそうだ。それを受けた原さんは、やっぱり大学の制度的な問題に引き寄せて答えてましたが。
ということで紙面の都合もありますので、勝手な「地形的建築解説」を終わります。(入江さん怒らないでください。)

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そがべ SOGABE 新建築2001.7月評

6月号は構造の特集。これにちなんで、今回は「特集の構造」について考えてみたい。建築雑誌での「特集」がもつ意味とその背景についてだ。今年に入ってから、新建築では掲載する作品に何かしらのフレームを被せて、特集化して見せることが増えた。素材特集、教育空間特集、そして今回の構造特集と、様々な特集が続く。昨年までも限られた作品を特集として扱うことはあった(今年でいえばせんだいメディアテーク特集)。しかしそれは、通常の作品紹介とは別に企画モノとして追加されるもので、最近のように通常の作品紹介で扱う作品に「特集」のフレームを被せることは少なかったように思う。普通に考えたら、竣工した時期で掲載号が決められているのだろうから、そんなことをする必要は無いし、少なからず無理も生じているに違いない。それでは、最近の新建築の特集ブームの背景には何があるのだろう。

まず、今月の掲載作品のテーマ(=構造)に対しての距離を確認しておきたい。写真を見ていて気がつくのは、どれもそれほど構造表現主義的ではないことだ。程度の問題だし主観的な話ではあるが、「見せます。特殊構造!」みたいなものは無い。構造の特集といえば、大抵は写真を眺めているだけでそれと判るものだが、そんな風には見えない。どこからどこまでがこの特集のページなのかも、よーく見ないと判らないくらいだ。それでは当の建築家側はどう考えているのだろうか。文章を読んでみよう。作品解説と構造解説(正確には「空間とストラクチャーの関係」)とが別々に用意されているせいもあるが、作品解説で構造にふれられているものは無い。構造解説でも淡々と構造的な解決方法についての説明が行われているだけだ(誤解の無いように申し添えますが、紹介されている構造がつまらないということでは全くありません。どの構造計画も興味深く、読んでいて楽しいものばかり)。例えば特集の初めを飾る「0123はらっぱ」。選ばれた構造形式は、できあがった建物の印象に深くかかわってはいるけれど、絶対的なものではない。もっといろいろな側面から語るべき建築であることは、作品解説の文章を読むまでもなく明らかだ。そういった印象は他のどの作品にも共通している。実際、こういった構造解説であれば、これまでの多くの作品でも可能だったはずだ。構造というフィルターを通さなければならなかった理由が、一つ一つの作品を見る限りでは見つからない。
それでは、なぜ特集が組まれているのだろうか。まず、建築雑誌のポジションを確認よう。建築雑誌は建築家自身によるドキュメンテーション集であると同時に、総体としてはそういったものを利用してつくられる今日的な建築の状況を伝えるメディアだ。扱っている建築作品の写真や図面、そして様々な文章を組み合わせ、それらの関係をコントロールすることで、今日的建築像を切り出すことが目指されているはずだ。雑誌側がどういう風に今日の建築の世界をみているのかが、今回の特集問題の背景にある。その背景について、一つの仮説を立ててみた。
「特集」は、ある特定の問題を中心に編集することをいうわけだけれど、先に確認したように、特定の問題(今回は構造)そのものが、今日の建築の際だった特徴を表しているというわけでは無い。ところで、少し前まで建築雑誌といえばカタログ的な作品配列メディアで、新建築はその代表だった。個々の作品には際だった特徴があって、それはヴィジュアル的にもテキスト的にも一目で伝わり、そういった特徴のバリエーションを保証することが、その時代の建築像を語るための最も適した方法だったのだ。一方、建築家側も、建築として扱う新しいトピックを見つけてはそれに回答を試み表現を消費してきたわけで、カタログ的な紹介の仕方とは相互補完的であった。ところが最近では、何か一つのトピックに意識を集中して他の事柄に目をつぶって設計するのは難しい。大量のそして立体的に関係づけられた情報環境の中で建築を考え始めてしまうと、その中のどこか一点を浮かび上がらせることは、ほとんど不可能だ。建築的な問題意識を一点に集中しないような傾向は、最近の多くの作品にみられるのだけれど、雑誌としてはそうやってできた建築をただ紹介するだけでは、全体としてつかみ所のない、よく判らないものになってしまう。そこで発明されたのが、気軽な特集的見せ方という手法であったのではないか。つまり、新建築に掲載されている作品には、どういう切り口に対してもある程度の内容的な深さが確保されているのだろうから、毎号さりげなく適当な切り口で語るようにすれば、建築を読みとるときに得られる内容の深さを紹介することができ、また一つ一つの作品が持っている価値の多面的な性格を損なうことはなく、さらには読者の興味もひきやすいというわけだ。なるほど、今月号では構造の「特集」とはどこにも書かれていなくて、単に構造解説シートみたいなものが添付されているのだが、それもうなずける。であれば、いっそのこと毎号異なるテーマを決めて、すべての作品に対してそのテーマに対する解説を行うというくらいにしてはどうだろう。1年分くらい通して眺めてみると、その時代の建築の世界の背景が浮かび上がってくるようなことも可能になりそうだ。そうやってできたテクニカルレポートをまとめれば、一冊の本になるかも。それに、中途半端な特集は、読者からのよけいな誤解を招くことにもなりかねないし。

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そがべ SOGABE 新建築2001.8月評

都市の現状からいかにリアルな情報を拾うのか,そしてそれをどのように生かすのかについて,3つのやり方が紹介されている.松永安光さんの論文(「コンパクトタウンをめざして」),曲渕研究室のレポート(「サイバーアーキテクチャーとは何か──未来の地図と都市のリテラシー」),そしてティトゥス・スプリーのプロジェクト(「1畳のオフィスから見る向島──Mobile Micro Office」)だ.都市リテラシー問題についての,3つの事例報告といってもいい.掲載のされ方のタイプがまったく異なるし,なにしろ作家としての立場というか職能(?)も違っているから,3者の比較は意味をもたないけれど,それぞれスタンスが特徴的で面白い.
「もの」をつくるときの習慣的なやり方に対して一定の距離を取ろうとしていて,その上で都市を読み取ることに考えるきっかけを求めているのが共通点.つまり都市を分析的に読み取り,それをもとにデザインしようとしているのだ. 都市を分析的に考えること自体はすごく昔から行われていることだけれど,この3者のようにそれを等身大の身近な問題として扱い,建築を立ち上げるための直接のきっかけとするようなやり方は,コールハース以降に顕著な傾向のひとつだ.

都市リテラシーを建築の問題として扱うときには,大きくふたつのフェイズに分けて考えることになる.つまり,都市からの情報をどのように拾い分析するのか(「読み」)と,その分析結果を建築家としてどのように扱うのか(「書き」)の2段階だ.このふたつの段階は不可分,というよりも「読み」をなくして「書き」はありえない.都市リテラシー問題を考えたフリをした,建築ファッション化作品をときどき見かけるが,こういう作品は「読み」の実感をなくして「書き」のことだけをやっていたりする.それとは反対に,「読み」と「書き」が密接な関係をもって計画されていることも,7月号の3作品の特徴.
曲渕研究室では,オブジェクト(=モノ)ではなく,サブジェクト(=私の意識)に注目して都市を読み取ることがテーマで,そのテーマを巡る研究成果が紹介されている.研究者という立場からすると当たり前ではあるが,「読み」の部分の比重が高い.今日の都市に適応した読み方をすることによって,習慣化した読み方から離れられ,さらには習慣化した建築の方法から自由になれる,ということだろう.新しい都市の読み方を知ることは,新しい建築の考え方を思いつくチャンスでもある.建築計画研究者とコラボレーションして設計するっていうのも楽しそうだ.建築を取り巻く状況をつかむために,建築計画研究者と建築家がコラボレーションするというのは,今日的な建築の方法のひとつ.曲渕さんと原広司さんとの協同のほか,最近では,小野田泰明さんと阿部仁史さんの協同もそうだ.
松永さんの論文では,今日的な都市の問題に関して建築家からの疑問を投げかけ,その具体的な方法が自作などを通して示される.確かに鹿児島のようないわゆる地方都市では,都市の問題はより顕著に現れるだろうし,時期的にも早めに顕在化するだろう.地方都市の特徴を利用するというのも,建築家が都市を「読む」ためのひとつの方法ではある.ただ,一義的に語られる低層低密度化指向が気にならなくもない.将来に向けてのヴィジョンの中に低密度化や低層化の方向性があるのは間違いないし,「中島ガーデン」(本誌9906)に異議を申し立てたいわけではない(実物も見てないし).時代のムードなのかもしれないけれど,都市の環境から得られる情報はもっと多様だし,また,多様ななりの分析の方法もありえるように思えるのだ.そうしたときに,やはりどこでも,たとえばヘクタールあたり100戸というようなことになるのだろうか.隣近所の環境ばかりではなくて,地球単位でもっと将来的なヴィジョンをもって構想しなければならない,ということかもしれないし,そういう考え方もわかるのだけれど,具体化するときの結論が大雑把に導かれると,論考そのものが無力化してしまうことだってある.
ティトゥス・スプリーのプロジェクトは,都市リテラシーものとしては,等身サイズ実践型プロジェクトなわけで,興味が引かれるところだ.しかし,このツールを通して見えてくることが伝わってこない.このツール自体はどうでもいい(はいい過ぎですけど)わけで,この活動そのものと都市の場所場所でインタラクティブに得られたであろうことを,もっと知りたいわけだ.こういうプロジェクトこそ,楽しげな雰囲気だけではなくて,より精緻な論考と,そういったことの紹介が必要なのだ.
都市リテラシーを前提に考えた建築の方法は,オブジェクトからサブジェクトへ(曲渕),中央的からの視点から地方的からの視点へ(松永),あるいは机上の論理からフィールドワークへ(スプリー)まなざしを移した建築の考え方であるといえる.ビルディングタイプそのものを揺るがす可能性さえもっているかもしれない.そうやって考えながら本誌を読み進め,本誌の最後にいつも紹介されている大型ビルディングの計画を見ていると,やっぱり世の中的には逆行しているなあと,つくづく思う.ちょっと文句をいったりもしたけれど,松永さんのコンパクトタウン化への視点には基本的に共感しているわけですし.

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そがべ SOGABE 新建築2001.9月評

池田小学校での不幸な殺傷事件が話題になっている。新聞などで報道された事件そのものにショックを受けたのは当然のこと、新建築8月号で紹介されたいくつかのコメントにも、違った水準でショックを受けた。事件そのものは特別なことなので、不謹慎な言い方ではあるが、「特別なこと」として受け止められる。しかし新建築に紹介されているコメントは、建築家(あるいはその関係者)の一般的な見解と受け取ることができるだけに、何だかとても不安になった。事件に対する距離の取り方が、自分の日常とは無関係なことを語っているかのように思えたからだ。サカキバラの事件の時にも、サリン事件の時にも、知り合いの建築家の発言を聞いていて、同じような居心地の悪さを感じることがあった。今回の本誌の記事を読んでいて、そのことを思い出した。

確かに、初めてこの事件の報道を聞いたとき、ろくに検討もされず「学校の門は閉じられるべき」という風潮に向かってしまうのではないかと心配になった。報道は、その性格上、問題をエキセントリックに扱いがちだ。しかし学校を運営している当事者達は、そこまで単純ではなかった。実際、僕の子供が通っている小学校では、外来者のチェックの仕組みの具体化が行われたり、学校内外の「危ない」場所探しが行われるなどの活動は起こったものの、門を閉めたり、子供の生活を規制しようなどという動きには発展していない。この問題に一番エキセントリックに反応しているのは、建築家だったりするのではないだろうか(さらにその状況に、僕がエキセントリックに反応している訳ですが)。多くの人たちが、「学校を閉じる」傾向に向かうことへの懸念を強く表明している。判らなくは無いのだが、原理主義的に学校を開こうとしているようにも感じられることがある。その啓蒙的なスタンスは、時に不気味でさえある。
なぜ学校を開くのか。そしてどのように開くのか。学校を地域社会に開くというのは、そういった議論が不可欠な、とても微妙な問題なのではないだろうか。まず、公共的な施設は社会に開かれているべきである、という視点。これは正論だろう。公共の建物は行政側が提供するものではなく、市民全体が所有しているものという意識を持つためにも有効な視点だ。しかし、これがすぐさま小学校への出入りの自由を意味するわけではないはずだ。市民の意識の中に開くのが目的であれば、他にもいろいろな方法があるし、やらなければならないことがあるように思う。
次に、教育の場は開かれているべきだ、という視点。まず、それはなぜか。子供達は広く社会で行われていることから学ばなければならない?当たり前だろう。しかし、そのためにただ単に学校を開放するなどというのは、ライオンの子供に倣って、谷底に子供を突き落とすようなものだ。効果はわかるがリスクへの検証が不可欠だ。開くこと自体が問題だなどとは思わないが、そのためには周到な準備が必要なのではないかと思う。少なくとも、単に開けばいいというものでは無いはずだ。保育園の子供達と老人ホームの老人達との交流が行われることがある。そういった時には、痴呆の老人が児童に危害を加えるというような万一の可能性に備えて、管理側の人たちは万全を期し、ずっと緊張を強いられるそうだ。そういう交流の機会をつくらない、ということではない。事故の可能性に対してのリアリティをもって、考えられる限りの準備をするということだ。こういったことは、運用の問題だけではなく、建築のハードを考える上でもイメージされるべきことだ。
そして、小学校をはじめとした管理型のシステムが学級崩壊や不登校を生んでいるという視点。こういう見方もよく聞く話ではあるが、みんな本気でそう思っているのだろうか。管理型のシステムによる価値の体系そのものと学級崩壊などとの関係については判らなくもないが、建築のフィジカルな状態を開放的にすることで学級崩壊が解消するのだろうか。例えば、間仕切りのない開放的な住宅にすることで家庭が円満になる、なんていう話も聞くが、本気なのかといつも不思議に思う。

今回のような問題に関して、建築家は社会一般の人たち、例えば学校運営の当事者達に対して、真っ向からぶつかるような主張をするべきではないように思う。極端な提案で相手をひかせてしまっても意味がない。協調的な議論で可能性を拡張していくべきだと思う。建築の世界での夢を見る前に、現実を見たほうがいい。その方が建築を考える上でも、実際には可能性が広がって、思考が楽しくなるはずだ。古い時代の雰囲気に対してのノスタルジーも、いい人的なヒューマニズムも必要ないんじゃないか。こういった問題に対して、建築が無力だなどとは思っていない。むしろ、さまざまな要求に対して対応する仕組みを発明することができる、影響力の大きなものだと思う。だからこそ、そういった建築の特性を有効に働かせるためにも、建築家側が意地にならない方がいいと思う。
最後に、博多小学校について。最近、見学する機会があったのだが、この建物は人の出入りという意味では、そんなにおおっぴらに開かれていない。むしろ出入りは管理されやすい。街の中心部にあるということも手伝って、視線として中が見えやすいのだ。また、展示などを利用してショーウィンドー的に学校内部を見せることで、実際よりも人にみられている感じが強く演出されている。内部においても、職員室のような大人が集まっている場所が用意されて無いし間仕切りも少ないので、そこら中に先生がいるような状態になる。そうした状態がつくられているからこそ、子供達にはいろいろな意味での自由が確保されている。これは、確実に管理された上での自由である。活動の範囲を明確に掌握した上で許された自由である。小学校のような建物を開くということを議論するときには、こういう精度で語られるべきだと思う。

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そがべ SOGABE 新建築2001.10月評

時代はリサイクル、ということらしい。一般的な話題としてはもちろんのこと、建築の世界にとっても無関係ではないようだ。新建築誌の誌上でも、割とコンスタントにリノベーションのプロジェクトが取り上げられている。難波和彦さんは大阪市立大学での設計の課題を全部リノベーション系のものにするといっていたし、何しろ青木茂さんがリファイン建築で日本建築学会業績賞を受賞したことが、建築の世界でも「時代はリサイクル」であることを端的に表している。
リサイクルとリノベーションを言葉として区別することなく書いたが、建築ではこういったカテゴリーをリサイクルではなくリノベーションと呼ぶことのほうが多い。ささいなことのように感じられるかもしれないけれど、この差は大きい。リサイクルが日常的な再生利用のサイクルを目指すのに対して、リノベーションは大きな改修をイメージさせる。どちらかといえば、一回限りの計画だ。このことは、建築の再生利用に関しての議論が、不思議な偏りをもってしまうことと無関係ではないだろう。

古い建築を扱うスタンスには、大きく二つのタイプがある。一つ目は、建築の歴史的な価値に注目する場合だ。歴史的な価値の保存が目的になる。9月号の東京大学総合研究博物館の計画は、このタイプの典型といえる。もう一つは、もっと即物的な資源としての価値に注目する場合だ。「使えるものは使う」というスタンスで、社会全体の無駄を減らすことが目的になる。9月号の八女市多世代交流館の計画は、このタイプの最右翼といっていいだろう。前者、つまり歴史的な価値に注目するような場合の議論は、歴史的な価値がどういった建築に認められるのか、ということにつきる。例えば、戦後のモダニズム建築の建替計画にともなって話題になったりする。最近では、武基雄の長崎水族館についても熱い議論が交わされていた。こういうタイプでは、議論を重ねることで歴史的価値の確認が行われるのだろうから、戦っている人たちからは叱られるかもしれないけれど、ある意味安心だ。
問題は後者のタイプだ。歴史的な価値はお金で量ることのできないような価値だという話はコンセンサスを得やすいのだが、資源の有効利用によって得られる価値についてはどうしてもお金で量ることになる。青木さんの計画では、コスト的にも有利だということで対議会的なエクスキューズも成立しているわけだけれど、人件費主体の建設コストをモノサシにして判断すると、資源としての建築の価値を正確につかまえることが難しくなる。そういった意味で、こちらのタイプの置かれている状況はまだまだ厳しい。

建築の資源としての価値を考えるということは、建築がもっているモノとしての特性の生かしかたについて発明的な視点で考える、と言い換えられる。これは、建築について考えるときに基本的な姿勢だ。たとえば、戸建ての住宅の計画を考えるときには敷地のもっている特性の生かしかたについて考えるし、町づくりのことを考えるときには、もともとその町が持っている特性をどう生かすのかについて考える。建築を取り巻いている多くのものは壊したり無くしたりできないものだから、既にあるものを受け入れて、その上で何ができるかを考えるというのは大前提だ。そうやって考えれば、既に建っている建物は、その場所が持っている一つの特性だし、その建物の特性を考えることはその場所での建築を考える上での必要なプロセスであるわけだ。本来、何も特別なことでは無いということだ。
先日、日本工業大学が主催する高校生相手のコンペの審査をした。課題は「建築の再活用−古い建物の改造方法を考えよう」というものだ。格好いい建物を考えてそれを図面に起こせばいいというような課題とは違って、建築をよく見て、得られた情報についてよく考えることが要求される。そうでないと、外観は既にある学校の建物のままで、平面図の「教室」の文字を「展示室」に変えればおしまい、ということにもなりかねない。実際応募作品の中には、ビルディングタイプの変更だけしかしてないような計画も少なくなかったのだが、おもしろい切り口を発見したようなアイデアもあった。建築の方法を知ってしまうとその範囲でしか考えられなくなるわけで、特性の生かし方を考えるような場合には、何も知らない高校生のアイデアみたいなものが有効だったりもするようだ。
ところで、この「特性の生かし方を考える」というスタンスは、塚本由晴さんの論考ともつながる議論なのだが、今回は誌面不足。次号第二回の論考が掲載させるようなので(誰が書くのかはわからないけれど)、それと合わせて。ということで、次号に続く。

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そがべ SOGABE 東海大卒製集に寄せて

  たのしく建築
ほんの数年前まで、溝ノ口には下町っぽい不思議な店や、小さなよく判らないスペースが散在していて、ちょっとアヤシイ雰囲気の漂うとても魅力的な街だった。アヤシサと気軽さと密度感がちょうどいいバランスを保っていて、いつ行っても新しい発見ができる、そういうところだった。その独特の魅力に惹かれて引っ越してきたのだが、この数年の間に大きく変貌を遂げた。駅前再開発というお題目のもと、昔の楽しかったものたちは半ば当たり前のことのように一掃され、巨大なビルと駅前の広場(?)ができた。たぶんあの魅力、あの楽しさは、開発にかかわった多くの人たちから認めてもらうことができなかったのだろう。もしかしたら、気づいてさえもらえなかったのかもしれない。よく、日本には魅力的な広場がない、なんていわれるけれど、いくらボロくってもいろんな楽しさはあるわけで、そういうところに気がつけない限り、いくら新しい広場をつくってみても、ただ新しいだけで、魅力的な広場がないっていう状況は変わらないじゃないだろうか。広場や駅前開発に限った話ではないけれど、初めからそこにあるものを大雑把に切り捨てる前に、現状の魅力的な部分に目を向けて、それを楽しめる気持ちを持てないと、いつまでたっても何も残らないに違いない。この文章が載ることになるこの作品集にどんな作品が掲載されているのかは知らないけれど、卒業制作なんかだと、大雑把でただ大規模なだけのプロジェクトもあるんじゃないか。もしも、そういう荒っぽいメンタリティで創られてしまったような作品があったら、一度疑ってみたほうがいい。将来、溝ノ口駅前開発のような仕事に荷担してしまうことがないようにするためにね。

さてさて、それだけが理由というわけでもないけれど、最近再び引っ越した(うちは夫婦して引越し好きで、結婚して十年目になるけど今度の家で5ヵ所目)。今度の家は、十戸の家が一列に並ぶテラスハウスの、ちょうど真中あたりにある。家の前の小さな庭を通って外に出るので、庭に水をまいたり、新聞を取ったり、車を洗ったりと、日常的な暮らしを送っていると、いやでも近所の人たちと顔を合わせることになる。そこで挨拶をしたり話をしたりということになるのだけれど、そうすると自然と無理のないコミュニティのエリアができあがってくる。実は、これが楽しい。前に住んでいた家は、よくある片廊下のマンションで、廊下で近所の人とすれ違えば挨拶くらいはするけれど、コミュニティ的なまとまりを感じるようなことは、まったく無かった。そのことを考えると、ぼくたちの「家の近所とのまとまりの(ルビ=「コミュニティ」)意識」は、引越しの前と後とで相当に変化した。となり近所の人たちはともかく、住んでいるぼくたちは何も変わっていないのだから、この違いは、建築の形式の違いによって生み出されたのに違いない。つまり、住んでいる家の形式によって、自分の生活の世界が広げられたということだ。ぼくが学生だった頃、コミュニティを否定して個人の視点から建築の形式を考えるというスタイルは、建築家的態度の主流のひとつだった。建築以外のいろいろな分野でも、「個人主義の時代」なんて言われていたのだから、時代を映す鏡としての建築がそういう方向を向いていたとしても、不思議は無い。実際には、そんなことを意識して片廊下のマンションがつくられているわけではないだろうし、ぼくだって「個人主義が強化されている」なんて意識しながらマンションに住んでいたわけではない。今問題にしなければならないのは、「個人主義の時代」だからといって、建築がそれを強化する必要があるのかどうかということだ。建築をとおして何かを提案するというのは、基本的に可能性を広げるものなのだと思うから、「個人主義」を元に建築を考えることで、何かしらの可能性が広がるのであれば、それもありえるのだろう。そういう意味で、よくある片廊下型のマンションは、「ご近所のまとまりを生み出す」という可能性を閉じていながら、それに見合う別の可能性を広げているわけでは無いわけだ。可能性が広がらなければ、まったく楽しくない。建築を考えるときには、いつも可能性が広がるように意識を向けていたい。たのしく建築を考えるというのは、そういうことだ。新しい家で新しい環境を経験して、そんな、当たり前で重要なことを実感することとなった。

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たけうち TAKEUCHI 「建築学会の新しい役割を問う。」転換期に

 大リーグでイチローや新庄が活躍している。日本のプロ野球のレベルがあがったのか、大リーグのそれが大きくおちてしまったのかはよくわからないが素直に喜ばしい。ちょっと前まで日本のプロ野球と大リーグでは比較しようがないほどレベルが違うと信じていたことがまるでウソのようだ。(だから誰も行こうともしなかった。)でも、同じ人間だし、レベルの違いは実際のところ、そんなに大きくなかったということらしい。逆に誰かが自分の都合のいいように、そういうことにしておこうと情報をゆがめ、コントロールしていたのではないかと疑いたくなってしまう。結果として「風がふけば桶屋が・・・」というわけではないが、日本のナイター中継の視聴率が大きく落ち込んでいるそうだ。ある意味で当然だが、ツマラナイプロ野球の中継を見ているより、ハイレベルな大リーグで活躍している日本人を見ていた方がおもしろいに決まっている。近い将来、優秀な選手はアメリカに行ってしまい、日本のプロ野球が大きな打撃をうけるのは素人目にも明らかだ。ある小さなきっかけから事態がおおきく動き出すというよい例である。

 もう一つ。ユニクロの話。ユニクロというファッションブランドが有名だ。ものすごく安いが、品質もしっかりしている。彼らが設定した価格は破壊的だった。その中で一番すごいのは、その値段を社内の人間が信じて、プロジェクトを進めきれたことだと思う。元来、新しもの好きな筆者は軽くて暖かいフリースはもう何年も前から愛用している。性能やデザインがよかったが、値段はそれこそ今の10倍近くしていた。それでも満足していた。他の防寒着との比較で、性能やデザイン性でリーズナブルと判断できた。でも、やればできることがわかってしまったいま現在、その当時の価格で同じ製品は決して買わない。社会にあったフリースの価格へのコンセンサスが変わってしまったのである。フリースは2000円前後の安いものになってしまった。

 一見、建築に関係ない話に見えるが、閉塞感をもった社会が大きく変わっていく途中でおこる様々な出来事としてこれらのことを見るとき、建築界や建築学に当てはめて考えることもできる。両者の抱える問題は根が同じである。今までの既存のシステムややり方がうまく働かなくなっているのである。
 ではそういう時どうするか。答えは意外と簡単で、動いているあるいは変化し続ける社会の流れに乗り、受け入れられる様にシステムを変えていけばいいのである。でも、いうのは優しいがやることはむずかしい。システム自体は変化に対応せず、それを守ろうとする傾向が強いからである。専門化した部分が自動的に、より専門化を押し進めようとする。社会に対して開く、一般にむけてわかりやすくする方向とは全く逆だ。

 ただ、現在のように、これだけ価値観が大きく変わろうとしている社会では、一度なんらかのかたちのリセットが必要で、それには社会のコンセンサスが必要なのである。そのコンセンサスの変更がおこなわれると、それは一気に行われ、人々のもっている価値観を大きく変えてしまう。
 実際、建築学会内部で活発に交わされた議論、検討せれた様々な問題について、内部で発表するだけではなく、一般の建築以外の社会に直接問いかけることはあるのだろうか。また、そういう仕組みをもっているのであろうか。あまり印象にない。たとえば高齢者問題などがニュースに取り上げられたとき、解説者として学会の名前がでてくることはまずないように思える。他にも、シックハウス、公共建築のあり方、住宅のあり方、首都移転問題に至るまで、物理的に建築に囲まれた生活者としての立場で考えると接点はほとんどない。

 設計者としては学会賞や学会主催の実施コンペなどが、学会との接点となるが業界内部だけにその情報は閉じている様に見える。実際、学会賞を取ったら新聞やテレビで特別番組が組まれ、どうして選ばれたかぐらいの解説を学会がきちんとするといった様なことが行われてもいいはずだと思う。そういう土壌がないというのであれば、つくらなくてはいけない。たとえば、小学生の時に環境や建築を学ぶ教科をつくることぐらいの働きかけはやろうと思えばできるだろう。文化の一部、教養として建築を教育する必要がある。

 建築をとりまく雑誌の状況は、そういう社会がなにを欲しているかよく現している。建築の専門誌は廃刊や縮小が余儀なくされるなか、一般誌は逆に建築の特集を競って組み、なかにはその建築関係だけ独立させた一般誌もある。それだけ、社会は環境や建築に対しての情報を求めている。いま、すぐにそれにこたえられないと、こたえるチャンスはずっと先、あるいは二度とこないかも知れない。

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